「ヴィルヘルム・マルクス」の版間の差分

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教師の息子として[[ケルン]]に生まれる。1881年に[[アビトゥーア]]合格。[[ボン大学]]で法学を学ぶ。卒業後ケルンとヴァルトブレルの裁判所に試補として採用される。1891年に結婚し四児をもうける。ジンメルンの抵当・不動産局で短期間働いたのち、1894年にエルバーフェルト地方裁判所の判事となる。10年後ケルンの裁判所に移動。1907年‐1921年、[[デュッセルドルフ]]裁判所判事。敬虔な[[カトリック]]教徒で[[中央党 (ドイツ)|中央党]]に属していた彼は、[[プロイセン王国]]ではこれ以上の出世は望めなかった。[[第一次世界大戦]]後に[[ヴァイマル共和政]]が成立すると、[[リンブルク・アン・デア・ラーン]]裁判所の所長となるが、すぐに[[ベルリン]]の最高裁判所判事に転じた。
 
早くからカトリック主義に基づいた中央党の政治活動に従事し、1899年にはエルバーフェルトの同党地区代表、1908年にはデュッセルドルフで地区代表になっていた。1899年からプロイセン王国議会の議員となり、1910年には[[会 (ドイツ帝国)|ドイツ帝国議会]]議員に選出され、1916年には中央党議員団執行部に入った。政治家として教育・文化政策に関わった。政治家としては冷静で穏健派であり、妥協を探る敵を作らないタイプと評された。
 
第一次世界大戦中は、拡張主義・勝利による和平ではなく講和による和平を主張していた。戦後ヴァイマール制憲会議の議員に選出され、同様に1919年‐1920年にはプロイセン州制憲会議の議員となった。[[連合国 (第一次世界大戦)|連合]]軍による[[ラインラント]]占領の際は、多くのラインラント出身議員と違ってラインラントのドイツからの分離に反対する立場をとった。同じ理由で[[ヴェルサイユ条約]]に賛成した。マルクスは中央党の結束に腐心し、中央党の[[ヨーゼフ・ヴィルト|ヴィルト]]内閣を支援した。