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イスラエル大統領
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イツハク・ナヴォンヘブライ語: יצחק נבון, 英語: Yitzhak Navon1921年4月9日 - )は、イスラエルの政治家、外交官、作家。イスラエル大統領(1978年 - 1983年)を務めた。

イツハク・ナヴォン
יצחק נבון
生年月日 1921年4月9日
出生地 イギリス委任統治領パレスチナ、エルサレム
所属政党 アラインメント
配偶者 オフィラ・ナヴォン

イスラエルの旗 第5代大統領
内閣 メナヘム・ベギン内閣
在任期間 1978年4月19日 - 1983年5月5日
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生い立ち

ナヴォンはエルサレムで、多言語話族のセファルディのラビの家系に生まれた。彼の父方は、1492年にスペインから追放され、トルコに入植したユダヤ人の子孫であり、その一家(Baruch Mizrahi家、もしくはAl Mashraki)は1670年にエルサレムに移住した。母方は著名なカバラ主義者のハイム・ベン=アッタール(Haim Ben Attar)の子孫である。ベン=アッタール家は1884年にモロッコからエルサレムにやって来た[1]。ナヴォンはエルサレムのヘブライ大学でヘブライ文学とイスラム学を学んだ。エルサレムでハガナーに所属した後、彼はイスラエル外交局によりウルグアイアルゼンチンに送られた。ナヴォンの妻オフィラは彼よりかなり若く、癌で死去した。彼らには2人の子供がいた。

政治家としての経歴

1951年にナヴォンはイスラエル初代首相ダヴィド・ベン=グリオンの政治秘書になった。続く年、彼はベン=グリオンの支局長に任命され、首相がモシェ・シャレットに代わっても彼はこの地位を続けた。1963年に、彼は教育省と文化省の部局長となった。2年後、ナボンは1968年に労働党(アラインメント党の一部)に合併するベン=グリオンのラフィ党からクネセト議会に当選した。ナヴォンはクネセト議会副議長と、外務・防衛問題担当クネセト議会委員会の議長を務めた。

大統領時代

1978年、ナヴォンは第5代イスラエル大統領に選ばれた。彼はエルサレムにある大統領用住居のベイト・ハナッシに、幼い子供達を連れて移り住んだ最初の大統領だった。彼の妻オフィラはイスラエルの子供達に対する福祉の推進に活動的だった。

イスラエルの大統領は儀式的な官職だったが、1982年のレバノンファランヘ党によって引き起こされたサブラ・シャティーラ事件では、ナヴォンはイスラエルの関わりを調査するための司法査問委員会を率直に提唱した。

1983年、ナヴォンは官職の2期目に立候補する機を拒んだ。その代わり彼は政治の場に戻り、そのようにした最初で唯一のイスラエル大統領となった。投票の発表の際、ナヴォンは労働党議長シモン・ペレスより人気があったが、ペレスは脇に寄り、党首の座をナヴォンに渡すよう促された。ナヴォンの流暢なアラビア語はアラブ系やミズラヒの有権者の間で人気となった。しかし、ナヴォンは党首の座を受け入れなかった。1984年、彼はクネセト議会に当選し、1984年から1990年まで教育相と文化相を務めた。彼は1992年までクネセトに議席を置き、その後政界を退いた。

文学活動

ナヴォンは2つのミュージカルを書いており、テルアヴィヴの国立劇場ハビマーで上演され成功を収めた。

脚注

外部リンク

先代
エフライム・カツィール
イスラエルの大統領
1978年 - 1983年
次代
ハイム・ヘルツォーグ