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[[Image:Bt7 6.jpg|300px|thumb|right|ソビエト軍のタンクデサント訓練([[BT-7]] 1935年型)]]
'''タンクデサント'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|танковый десант}}'''<small>タンコーヴィイ・ヂサーント</small>;[[ラテン文字]]転写の例:''{{lang|la|tankovyy desant}}'';'''戦車跨乗''';せんしゃこじょう)は[[戦車]]にまたがって移動したり戦闘に参加する[[歩兵]]の戦術である。戦車跨乗部隊のことを'''{{lang|ru|танко-десантники}}''',''{{lang|la|tankodesantniki}}''という。[[第二次世界大戦]]中の[[ソビエト連邦|ソ連]][[赤軍]]等で行われたのがよく知られている。
 
=== ソビエト連邦の赤軍 ===
[[Image:Soviet pressing 1944.JPG|500px|thumb|[[T-34]]から飛び降りるソ連兵(1944年)]]
赤軍ではタンクデサントが多用され、[[ノモンハン事変]]などで広く見られた。第二次世界大戦が始まるとソ連は戦車などの主力兵器に生産力の大半を消費し、歩兵に供するべき軽車両の生産は極めて少なかった。必要最低限の車両も米国の[[レンドリース法]]によって供与される車両に頼っていたほどである。さらに、ソ連は、偵察用に[[装甲車]]を配備する一方、ドイツの[[Sd Kfz 250]] / [[Sd Kfz 251|251]]やアメリカの[[M3ハーフトラック]]のような[[装甲兵員輸送車]]の開発を怠っていた。そのため十分な歩兵を戦車に随伴させることができず、戦歩分離された状態で戦車部隊が戦闘に突入し、対戦車攻撃によって大損害を受けることが多くあった。それへの窮余の策としてタンクデサントが多用され、一般的な運用法と化していた。こうなるともはや一時的な方策ではなくはじめから運用が前提とされているところがあり戦車にはタンクデサント用の取っ手がつけられた。また赤軍はタンクデサントを敵の[[塹壕]]に手っ取り早く歩兵を送り込む手段とみなしていた節があり跨乗させたまま戦闘に突入することも多かった。このような理由からタンクデサントの死傷率はとても高く平均寿命は2 - 3週間と言われる。消耗品として懲罰大隊(1942年から終戦までに実に1049個大隊も編成)の兵士によって構成されることが多く、実際にタンクデサントが多用された戦争後半ほど懲罰大隊の編成数も比例するように増加している。
そのため、死傷率を少しでも下げようと[[SN-42]]のような金属製鎧が配備されたりもしたが、あまり効果があったとはいいがたい。
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