「ヴァシリー・ウルリヒ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
帝政ロシア支配下の[[ラトビア]]・[[リガ]]で、[[ドイツ系]]の父親とロシア貴族出身の母親との間に生まれた。父が革命家であったため、ロシア当局により一家ごと[[シベリア]]・[[イルクーツク]]へ5年の流刑に処された。[[1910年]]にリガへ戻り、リガ工芸協会で工芸を学んだ。[[1914年]]にここを卒業したのち、[[第一次世界大戦]]で最前線に送られた。
 
[[ロシア革命]]後には[[レフ・トロツキー]]により[[チェーカー]]に入れられた。さらにその後、軍事委員会の一員となる。ここでスターリンの目にとまり、[[1926年]]にはソ連最高裁の裁判された。スターリンの言われるままに無法判決を下し、特に[[大粛清]]期には猛威をふるった。世界に向けて公開された三回の[[モスクワ裁判]]も彼が裁判長であった。[[1937年]]6月の[[ミハイル・トハチェフスキー]]ら[[赤軍]]高官への銃殺死刑判決も彼が下した。刑執行にあたっては自ら立ち会うことがあり、さらにウルリヒ自身の手で[[死刑囚]]を殺して満足を得ることもあったという。
 
対独戦争(大祖国戦争)勃発後も無法判決を行い、[[サボタージュ]]・[[敗北主義]]者などと[[レッテル]]を張られた人々を大量に死刑にした。[[国内軍 (ポーランド)|ポーランドの国内軍]]に対する迫害として悪名高き「[[16人裁判]]」でも彼が裁判官を務めている。戦後もスターリンへの追従と無法判決ぶりは変わらず、[[アンドレイ・ジダーノフ]]による文化人抑圧政策を支持してスターリンやジダーノフに睨まれた人々に有罪判決を下した。しかし[[1948年]]、[[ウクライナ]]の農民たちに死刑判決のかわりにシベリア追放刑を下した手違いの件で、スターリンに辞職を求められた。その後は赤軍軍事法律学校の教官に転じたが、[[1951年]]には[[心筋梗塞]]により死去。