「永久の変」の版間の差分

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もっとも、村上源氏の中でも堀河天皇の実の外祖父にあたる師房の次男・顕房の系統は堀河天皇の支援者であり、皇位継承に関しては兄弟である俊房・師忠の系統と異なる意見を有していたが、これによって村上源氏が分裂することはなく永久の変前後を通じて一族の一体性を保っていた。更に村上源氏の祖である師房は摂政・関白を務めた[[藤原頼通]]の義弟でその養子となっており、以後も何代にもわたって摂関家と婚姻関係を結んで共存共栄を図っており、村上源氏は摂関政治の批判者でも院政の支持者でもなかった。更に白河上皇(出家して法皇)も院政によって政務を主導して摂関家の勢力を抑えたものの、[[藤原師通]]没後の摂関家の内紛による崩壊の危機に際しては師通の子・忠実の摂関家継承とその庇護に尽力しており摂関家嫡流の存続に努めている。このように、白河法皇・摂関家・村上源氏は個々の場面では対立することはあっても各者の協調によって政務が運営されていた。それは、[[嘉承]]2年([[1107年]])に堀河天皇急逝に伴う皇子である鳥羽天皇の即位後も大きな変化はなく、白河法皇の院政や輔仁親王への皇位継承を巡る不満があったとしても、「天皇暗殺」至る程の政治的緊張の発生する事態には至っておらず、事件はまさに突発的であったと言える。
 
この事件によって、輔仁親王は白河法皇に警戒され、[[元永]]2年([[1119年]])憂悶のうちに死去したとされているが、その一方で法皇は皇子の子である[[有仁王]]を自己の猶子として遇し、鳥羽天皇の皇子誕生後の元永2年に有仁が[[臣籍降下]]した直後に公卿に列せさせて以後もこれを庇護するなど、硬軟両面の対応をしている。また、村上源氏、特に本来嫡流と考えられていた俊房の系統が没落して弟の顕房の系統が嫡流とされ、[[久我家]]などの多くの[[堂上家]]を輩出するなどの影響があったとされているが、俊房系の没落の原因としてはその長男である[[源師頼|師頼]]が事件以前より長く隠遁して不出仕の状態にあり<ref>既に源師頼は[[藤原頼長]]をして「先師」(『[[台記]]』)と称せられる程の碩学であったが、永久以前の[[天仁]]元年([[1108年]])の段階で3年間の不出仕を理由に殿上籍を削られ、以後、[[大治 (日本)|大治]]5年([[1130年]])[[権中納言]]に昇進するまで全く官位に変動がなかった(山内益次郎『今鏡の周辺』(和泉書房、1993年)ISBN 978-4-87088-572-1)。</ref>、それが大きな俊房流全体に対しても影響を与えているとも考えられる。
 
このため、この事件は仮に仁寛が計画していたとしてもそれは個人的な計画であったこと、何らかの政治的陰謀が絡んでいたとしても鳥羽天皇の皇位が安定した以上の結果はもたらさず<ref>元永2年に鳥羽天皇に[[顕仁親王]]([[崇徳天皇]])が誕生するまでは、次期皇位継承者は確定しておらず輔仁親王や有仁王への皇位継承の可能性も完全には消滅してはいなかった。</ref>、朝廷内に大きな権力変動を及ぼすようなこともなかったと考えられている。