「うしおそうじ」の版間の差分

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{{和暦|1961}}、40歳。この春、うしおのピープロ設立に触発され、アニメ制作を始める決意をした[[手塚治虫]]のたっての願いでうしおは三軒茶屋の動画プロダクション「芦田プロ」([[芦田漫画研究所]])の旧知の[[芦田巖]]社長の元へ同行する(手塚は戦後すぐに尋ねて以来、二度目の再訪だった)。手塚はうしお立会いのもと30分にわたって芦田社長に助力を懇願するが、すげなく断られてしまう。結局手塚は同年、アニメのノウハウを実践することなく[[虫プロダクション]]を立ち上げる。
 
{{和暦|1962}}、41歳。特撮テレビ番組『STOPシリーズ』を企画、4本の検討用脚本も執筆し、「巨大な亀が暴れる」特撮のテストフィルムを円谷英二に見せたところ、[[東宝テレビ部]]が注目、企画が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に持ち込まれたものの、結局放映は実現しなかった。
{{和暦|1953}}、42歳。円谷英二に請われ「[[円谷プロダクション|円谷特技プロダクション]]」設立のため、7人の発起人の1人として、取締役に(名義上のみ)就任。
 
{{和暦|19531963}}、42歳。円谷英二に請われ「[[円谷プロダクション|円谷特技プロダクション]]」設立のため、7人の発起人の1人として、取締役に(名義上のみ)就任。
 
{{和暦|1964}}、43歳。世田谷区若林に「第一スタジオ」を新築。アニメスタッフ顧問に[[政岡憲三]]、特撮スタッフには大映を離れた[[小嶋伸介]]、[[田賀保]]らがいた。このころ虫プロダクションの『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』製作を下請けし、4クール分を担当する。