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'''恭子女王'''(きょうし(たかこ)じょおう、[[永観]]2年([[984年]]) - 没年不詳)は、[[平安時代]]中期の[[皇族]]。[[斎宮|伊勢斎宮]]。[[村上天皇]]の皇孫。[[為平親王]]王女、母は左大臣[[源高明]]女。
 
[[一条天皇]]の斎宮として、[[寛和]]2年([[986年]])8月8日に3歳で卜定される。その後宮内省へ初斎院入り、[[永延]]元年([[987年]])9月13日、野宮に移る。同2年([[988年]])9月20日、5歳で伊勢へ群行(長奉送使は[[中納言|権中納言]][[藤原道兼]])。[[長保]]2年([[1000年]])11月7日、17歳で[[裳着|著裳]]。[[寛弘]]7年([[1010年]])11月7日、父為平親王の死去により27歳で退下。一条朝のほぼ全期間、24年に渡る長期の在任であった(歴代斎宮の中でも、[[柔子内親王]]に次いで2番目に長い)。寛弘8年([[1011年]])5)4月21日に大祓を行い、同年5月25日に帰京その後の消息は不明。
 
== 参考文献 ==