「足利満詮」の版間の差分

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上杉禅秀の乱への対応など
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== 生涯 ==
 
幕閣にあって常に兄を陰から支えるような立場であり、[[永和 (日本)|永和]]4年([[1378年]])に義満が[[東寺]]に出陣した際には数百の兵を率いて参陣している。生母の紀良子とともに武者小路の小川第に住み、応永9年([[1402年]])に従三位[[参議]]、同10年([[1403年]])には従二位権大納言と順調な出世を遂げる。同年、小川第にて、義満自らの手による剃髪をもって[[出家]]、法名を勝山道智と称す。同23年([[1416年]])の[[上杉禅秀の乱]]の際は、躊躇う将軍[[足利義持|義持]]に対し、早く[[鎌倉公方]][[足利持氏|持氏]]を救援するよう進言している(『[[看聞日記]]』同年10月29日条)。同25年に病没し、[[等持院]]にて荼毘に付された。その葬儀の際には「諸人これを惜しむこと父の如し」とまで言われたという。贈従一位[[左大臣]]、謚号は養徳院とされた。
 
満詮の室に[[藤原誠子]]があり、一子[[持円]]を産んだが、義満はまだ満詮存命中の応永13年にこれを召し出して、同年一子[[梶井義承|義承]]を産ませている。生涯を通して破天荒な女性関係を持ち続けた義満と、常に兄に従順であった満詮との対照的な生き様を物語るエピソードである。
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== 参考文献 ==
*臼井信義『足利義満』([[吉川弘文館]] ISBN 4-642-05150-3
*伊藤喜良『足利義持』(吉川弘文館) ISBN 978-4-642-05246-7
 
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