「米脂県」の版間の差分

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米脂県の古称は[[銀州]]であり[[563年]]([[保定]]3年)、[[北周]]により初めて設置された。[[563年]]([[大業]]3年)、[[隋|隋朝]]は州制を廃止[[雕陰郡]]を設置している。[[628年]]([[貞観 (唐)|貞観]]2年)、[[唐|唐朝]]は雕陰郡を廃止し銀州に復すと共に[[銀州郡]]を設置しその管轄に置き、[[五代十国]]時代には[[定難軍]]が米脂地区を管轄した。
 
[[北宋|宋代]]になると銀州は[[西夏]]の統治を受け、米脂地区には畢家寨が設置され、後に米脂寨と改称された。[[1081年]]([[元豊 (宋)|元豊]]4年)、宋軍が銀州の支配権を奪還すると米脂城が設置され、[[1226年]]([[正大]]3年)、[[金 (王朝)|金朝]]により'''米脂県'''が設置されて以降、[[明|明末]]の[[1643年]]([[崇禎]]16年)に[[西安市|西安]]に[[李自成]]が[[順 (王朝)|順朝]]を成立させ、[[天保県]]と改称され[[延安府]]に属した一時期以外、[[清|清末]]まで[[綏徳州]]の管轄とされた。
 
[[中華民国]]が成立すると、[[1913年]]に米脂県は[[楡林道]]、後に[[第一督察区]]の管轄とされた。[[日中戦争]]の時期には[[中国共産党]]の実効支配を受け、[[1937年]]7月に[[陝甘寧辺区]][[綏徳専区]]の管轄に置かれ、中華人民共和国成立後は[[1956年]]9月に[[楡林専区]]に移管された。[[1958年]]12月、[[佳県]]と一時統合されたが[[1961年]]9月に分割され現在の行政区画が確立している。