「広安門事件」の版間の差分

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北平居留民保護の為に日本軍広部大隊<ref>支那駐屯歩兵第二連隊第二大隊(戦史叢書 pp.216-217)</ref>は26台のトラック<ref name=sosho>戦史叢書 pp.216-217</ref>で北平城内の日本兵営に向かった<ref name=rikugun6>陸軍省新聞班 1937 p.6</ref>。事前に松井特務機関長が部隊の北平外城広安門通過について[[冀察政務委員会]]当局と交渉して[[秦徳純]]市長の承諾を得た上で連絡の為に冀察政府軍事顧問桜井少佐が午後6時頃広安門に赴くと門を警備していた中国軍が城門を閉鎖していたため開門について交渉した結果午後7時半頃開門され部隊が門を通過を始めたが部隊の3分の2が通過した時に<ref>『戦史叢書』では先頭のトラック3両が通過したときに中国側の攻撃が開始されたとされている(戦史叢書 pp.216-217)</ref>突如門が閉ざされ広部部隊を城門の内と外に分断した状態で不意に手榴弾と機関銃の猛射による攻撃を加えてきたため広部部隊も<ref>『戦史叢書』では軍事顧問が中国軍の鎮撫に努めても聞かないため午後8時応戦を始めたとされる(戦史叢書 pp.216-217)</ref>門の内外から応戦した<ref name=rikugun6/>。中国側は兵力を増強して大隊を包囲し、一方豊台の河辺旅団長により午後9時半救援隊が派遣されたところで折衝により中国軍は離れた場所に集結し、広部部隊の内、城内に入ったものは城内公使館区域に向かい、城外に残されたものは豊台に向かうという案がまとめられ午後10時過ぎに停戦し、広部部隊は27日午前2時頃公使館区域の兵営に入った<ref name=sosho/>。この戦闘における日本軍の死傷者の合計は19名で、その内訳は戦死が上等兵2、負傷が少佐1、大尉1、軍曹1、上等兵2、一等兵1、二等兵7、軍属2、新聞記者1であり、桜井顧問に同行した通訳1名も戦死している<ref name=rikugun6/>。
 
当時、既に中国軍は[[河北省]]南部の[[石家荘市|石家荘]]・[[保定市|保定]]や[[山西省]]の[[大同市|大同]]に多数集結し、また[[豊台区|豊台]]においては完全に日本軍を包囲しており、その一方で日本軍も新たに動員された[[関東軍]]・[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]の部隊が北平・[[天津市|天津]]地区に到着しつつあり、両軍の間で緊迫の度が高まる中で起きた事件であった<ref>*[[伊香 俊哉]]『満州事変から日中全面戦争へ』[[吉川弘文館]]、2007年 ISBN 978-4642063326</ref>。
 
==事件の影響==
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==関連事項参考文献==
*陸軍省新聞班「朗坊事件以後」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年8月4日
*『〈[[戦史叢書]]〉支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』[[朝雲新聞社]] 1975年7月
 
==関連項目==
*[[蘆溝橋事件]]
*[[廊坊事件]]
*[[通州事件]]
*[[梅津・何応欽協定]]
 
==参考文献==
*伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』[[吉川弘文館]]、2007年 ISBN 978-4642063326
*陸軍省新聞班「朗坊事件以後」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年8月4日
*『〈[[戦史叢書]]〉支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』[[朝雲新聞社]] 1975年7月
 
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