「一色義貫」の版間の差分

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[[管領]]の[[畠山満家]]らの仲介もあって、義貫は再び幕政に復帰している。[[1440年]]、関東で起こった[[結城合戦]]に際して、義教の命で[[大和国]]の[[越智氏]]を討伐のために出陣する。義貫は[[永享の乱]]で幕府に対して挙兵した[[足利持氏]]の残党([[一色時家]]等)を匿った罪を問われ、[[土岐持頼]]とともに義教から追討を受ける。[[武田信栄]]に腹背を攻められて敗北。同年5月15日、大和信貴山の竜門寺で一族と共に自害して果てた。[[享年]]41。法号は安養寺泰雲。
 
義貫は四ヶ国を兼ねる有力守護となり、そのために義教に警戒され、謀殺されたと言われる。また、一色氏内部でも家督をめぐり伯父である[[一色持範|持範]]・甥である[[一色教親|教親]]との抗争があった。一色氏の遺領地は分配され、一色氏は没落する。
 
== 関連項目 ==