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1895年4月に[[日清戦争]]で日本が勝利したが、[[三国干渉]]の結果、朝鮮での日本の影響力が弱まり、王妃の[[閔妃]]を中心に親露派の力が増した。その結果、日本の影響力の下で行われていた甲午改革は停滞することとなった。しかし、10月8日(旧暦8月20日)に閔妃が殺害([[乙未事変]])されると、[[金弘集 (政治家)|金弘集]]内閣は急進的な近代化改革を再開した。[[断髪令 (朝鮮)|断髪令]]、[[旧暦#中国・韓国など|旧暦]]から[[グレゴリオ暦#各国のグレゴリオ暦導入年月日|太陽暦]]への変更、新しい年号「[[建陽]]」の制定、小学校の設立、郵便網の整備、種痘法の施行、軍制改革などが行われた。しかし、これらの急進的な近代化改革は、守旧派の激しい反発と抵抗を招き、1896年2月11日には、国王の[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]がロシア公使館に移り([[露館播遷]])、金弘集は殺害され、乙未改革は終った。
 
== 外部リンク ==
* [http://www.encyber.com/search_w/ctdetail.php?masterno=124315&contentno=124315 乙未改革 - encyber.com(斗山世界大百科事典)]
 
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