「東京大学 (1877-1886)」の版間の差分

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明治政府が設立した2つの官立洋学校の[[開成学校|東京開成学校]]([[開成所]]⇒[[大学校 (1869年)#大学南校|大学南校]]の後身)および[[医学校|東京医学校]]([[医学所]]⇒[[大学校 (1869年)#大学東校|大学東校]]の後身)は、それぞれ旧[[江戸幕府]]以来の独自の歴史を持っていたが、1877年[[4月13日]]に統合され[[文部省]]管轄の官立「'''東京大学'''」が設立された(現在の[[東京大学]]はこれをもって「大学'''設立'''」、日付を「'''東京大学記念日'''」とし、毎年この日に入学式を挙行している)。この時点で東京大学は[[法学部|法]]・[[理学部|理]]・[[文学部|文]]・[[医学部|医]]の4[[学部]]からなり修業年限は4年とされた。
 
しかしこれは直ちに上記2学校の組織的統合を意味したのではなく、両校は統合されてもその校地は[[神田錦町|錦町]](法理文3学部=旧・開成学校)と[[本郷 (文京区)|本郷]](医学部=旧・医学校)とで離れており、さらにかつて[[大学校 (1869年)|大学校]]として統合する構想があったものの、ついに実現しなかったという過去があった。このこともあって医学部は[[池田謙斎]]、法理文3学部は[[加藤弘之]]と、それぞれ異なる「'''綜理'''」(現在の東大[[学長]]に相当)を頂いており、実態は2校の連合体に過ぎなかった。『東京大学100年史』においても、1877年の統合について単なる名称変更に過ぎず大学建設への積極的な方針や抱負はみられないとしている。東京大学時代の[[1880年]]以降、毎年全学部合計で50人前後(うち約半数が医学部)ではあるが、全学部が継続的に卒業生を輩出し続けるようになったのが、開成学校・東京医学校時代との最大の違いである
 
'''[[1881年]]の機構改革'''により、同年[[7月6日]]以降、東大は初めて単一の「'''総理'''」(初代は加藤弘之)を持つことになり(同時に4学部に「学部長」職が新設された)、2校はようやく名実ともに統合され、[[総合大学]]としての東京大学が実質的に成立することになった。また、神田錦町に所在していた法理文3学部は、東京大学設立以降[[1885年]]にかけて医学部に隣接する本郷の新校舎に移転して校地の統合が完了し、現在の[[東京大学本郷地区キャンパス|東大本郷キャンパス]]の原型が形成された。
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=== 帝国大学への移行 ===
1886年3月1日の[[帝国大学令]]制定により、東京大学は同年[[3月2日]]をもって[[工部大学校]]を併合すると同時に、5[[分科大学]](「学部」の後身)および[[大学院]]をもつ全国唯一の「'''帝国大学'''」に改編され、諮詢会は廃止、予備門を[[高等中学校|第一高等中学校]]として分離独立(のち[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]と改称)させた。ここに[[東京大学]]の初期形態としての旧「東京大学」の時代は終焉し、続く「(東京)帝国大学」の時代へと引き継がれることになった。そして「(東京)帝国大学」時代長らくの間、創立記念日は帝国大学令公布日である1986年3月1日とされてきた。
 
=== 年表 ===
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* 1885年:[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]仏学科・独学科を予備門に併合。医学部に学士研究科を設置。
* 1886年1月11日:外山正一が総理事務取扱に就任( - 3月1日)。
* 1886年3月21日:「帝国大学令」公布。「東京大学を「ト工部大学校ノ事業ヲ更正シテ、帝国大学ヲ創設に改編。同時に予備門は第一高等中学校として分離。
 
== 歴史的性格 ==
帝国大学成立以前のこの「(旧)東京大学」の時期には、工部省には[[工部大学校]]、司法省には[[司法省法学校]]、開拓使には[[札幌農学校]]、内務省には[[駒場農学校]]があり、各官庁は独自に専門官僚を養成していた。そしてこの時期の東京大学の性格としては、'''文部省の教育機関の教員養成所のような性格'''であり、卒業生で行政官になる者はあまりおらず、多くが学校の教員(医学校教員を含む)となっていた。また各省の専門官僚養成学校にも優秀な学生が集まっており、'''この時代の東京大学が"最高学府"だった訳ではない'''。優秀な学生がこの学校に集中するようになるのは、司法省法学校と工部大学校を吸収し、1986年、[[帝国大学令]]による「国家ノ須要」を目的とする[[帝国大学]]に改組された後であり、東京帝国大学時代長らくの創立記念日は帝国大学令公布日である1986年3月1日とされてきた。また卒業生が就職先として行政官に殺到するようになるのは、[[1887年]]に官僚任用試験制度が制定され帝国大学卒業生が優遇されてからである。[[1880年]]以降、毎年全学部合計で50人前後(うち約半数が医学部)ではあるが、全学部が継続的に卒業生を輩出し続けるようになったのが、開成学校・東京医学校時代との最大の違いである。
 
{{明治時代の法律学校}}