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'''大久保 忠増'''('''おおくぼ ただます'''、[[明暦]]2年([[1656年]]) - [[正徳]]3年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]([[1713年]][[9月14日]]))は、[[江戸時代]]の[[大名]]、[[老中]]。[[小田原藩]]主。
[[寺社奉行]]、[[若年寄]]をへて、老中となる。父は[[大久保忠朝]]、正室は寿昌院慈岳元長尼([[白河藩]]主[[松平忠弘]]の娘)
である。
==宝永噴火と藩政==
宝永
翌年の宝永
足柄・御厨地域6万石が小田原藩に還付となったのは35年後の[[延享]]4年([[1747年]])となったが、火山灰が降り積もったため領内の[[酒匂川]]はしばしば土砂氾濫・洪水を繰り返し、最終的に[[足柄平野]]の復興がなったのは、噴火発生から76年後の[[天明]]3年([[1783年]])であった。<br>
''([[伊奈忠順]]の項目も参照
==出来事==
[[1656年]]([[明暦]]2年) 生まれる<br>
[[1681年]]([[天和]]元年) [[奏者番]]<br>
[[1685年]]([[貞享]]2年) 寺社奉行を兼務([[7月22日 (旧暦)|7月22日]])<br>
[[1687年]]([[貞享]]4年) 奏者番、寺社奉行を免ぜられ、若年寄([[12月18日 (旧暦)|12月18日]])<br>
[[1688年]]([[元禄]]元年) 若年寄免<br>
[[1698年]]([[元禄]]11年) 忠朝死去、小田原藩家督相続<br>
[[1703年]]([[元禄]]16年) '''[[元禄]][[南関東]][[地震]]'''(11月)<br>
[[1705年]]([[宝永]]
[[1707年]]([[宝永]]
[[1713年]]([[正徳]]3年) 老中在職のまま死去([[7月25日 (旧暦)|7月25日]])、享年58歳<br>
==官位==
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[[1687年]]([[貞享]]4年) 隠岐守<br>
[[1700年]]([[元禄]]13年) 従四位下<br>
[[1705年]]([[宝永]]
{{People-stub}}
[[Category:江戸の大名|おおく
{{生没年|おおく
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