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'''大久保 忠増'''('''おおくぼ ただます'''、[[明暦]]2年([[1656年]] - [[正徳]]3年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]([[1713年]][[9月14日]]))は、[[江戸時代]]の[[大名]]、[[老中]]。[[小田原藩]]主
 
生没は[[明暦]]2年([[1656年]]) - [[正徳]]3年([[1713年]])[[7月25日]]<br>
[[寺社奉行]]、[[若年寄]]をへて、老中となる。父は[[大久保忠朝]]、正室は寿昌院慈岳元長尼([[白河藩]]主[[松平忠弘]]の娘)
である。
 
==宝永噴火と藩政==
 宝永7411([[1707年]])11月の[[富士山]]噴火は、約2ヶ月前の[[宝永地震|宝永南関東地震]]を契機に発生したといわれているが、小田原藩領のうち、[[足柄上郡]]と[[駿東郡]]が大打撃を受けた。忠増は、家臣柳田久左衛門に命じて被害状況を調べさせたが、忠増は老中として[[江戸]]にあり、直接指揮がままならなかったこと、小田原藩は4年前の[[元禄16年地震]]の余波から立ち直れず復興資金繰りに難渋したこともあり、藩の救済は捗らず、このため、被害の大きかった足柄上郡104ヶ村と駿東郡59ヶ村の住民は幕府に直訴に及ぶ構えをみせ、ここに至り忠増は藩単独での復興をあきらめ、幕府に救済を願い出た。<br>
 翌年の宝永85[[1708年]])[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]、幕府は被害の大きかった[[足柄]]地方と[[御厨]]地方の6万石を[[天領]]とし、藩には代わりに[[伊豆]]、[[美濃]]、[[播磨]]のうちに代替地が与える処分が出され、早くも[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]には[[関東郡代]][[伊奈忠順]]を復興総奉行に任命し、その資金は全国から100石につき金2両という割合で高役金(臨時課税)を課して集めた48万両余を当てる一方、被災地の土地改良・河川改修の手伝普請に[[備前]][[岡山藩]]など5つの諸大名に分担せしめた。<br>
 足柄・御厨地域6万石が小田原藩に還付となったのは35年後の[[延享]]4年([[1747年]])となったが、火山灰が降り積もったため領内の[[酒匂川]]はしばしば土砂氾濫・洪水を繰り返し、最終的に[[足柄平野]]の復興がなったのは、噴火発生から76年後の[[天明]]3年([[1783年]])であった。<br>
''([[伊奈忠順]]の項目も参照くださいのこと)''
 
==出来事==
[[1656年]]([[明暦]]2年) 生まれる<br>
[[1681年]]([[天和]]元年)  [[奏者番]]<br>
[[1685年]]([[貞享]]2年)   寺社奉行を兼務([[7月22日 (旧暦)|7月22日]])<br>
[[1687年]]([[貞享]]4年)  奏者番、寺社奉行を免ぜられ、若年寄([[12月18日 (旧暦)|12月18日]])<br>
[[1688年]]([[元禄]]元年)  若年寄免<br>
[[1698年]]([[元禄]]11年)  忠朝死去、小田原藩家督相続<br>
[[1703年]]([[元禄]]16年)  '''[[元禄]][[南関東]][[地震]]'''(11月)<br>
[[1705年]]([[宝永]]52年)  老中([[9月21日 (旧暦)|9月21日]])<br>
[[1707年]]([[宝永]]74年)   '''[[宝永]][[東南海]][[地震]]'''([[10月4日 (旧暦)|10月4日]])、'''[[富士山]][[噴火]]'''([[11月23日 (旧暦)|11月23日]])<br>
[[1713年]]([[正徳]]3年) 老中在職のまま死去([[7月25日 (旧暦)|7月25日]])、享年58歳<br>
 
==官位==
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[[1687年]]([[貞享]]4年)  隠岐守<br>
[[1700年]]([[元禄]]13年)  従四位下<br>
[[1705年]]([[宝永]]52年)  [[侍従]]・加賀守<br>
 
{{People-stub}}
[[Category:江戸の大名|おおくほたます]]
{{生没年|おおくほたます|1656年|1713年}}