「テレビ神奈川」の版間の差分

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MXとtvkの対立を立証できるソースがwikipedia上にない
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* 80年代の[[フィラー]]は横浜そごうにお天気カメラが設置されるまで[[カラーバー]]であり、下部に'''42''TVKテレビ'''''という表示に時刻が表示されていた。[[音声多重放送]]開始後は前述の'''42'''のマークが消え、上部に'''''TVKテレビ'''''の表示、下部に時刻表示とCD(Compact '''disc''' Digital AUDIO)のマークが表示されていた。当時はまだCDが本格的に普及していなかったので、音声多重(ステレオ)放送とともに高音質をアピールするためと思われる。
* 1970年代末期?1980年代初頭にかけ、キー局では[[音声多重放送]]開始と時を同じくして、フィルム主体([[テレシネ]])の送出を順次[[VTR]]主体へと切り替えていたが、TVKにおいては予算や機材償却との兼ね合いから、VTR主体での送出はかなり後のこととなる。これにより往時は特にCMや[[スーパー (映像編集)|テロップ]]の画質が他社と比して格段に劣っていた。その後、音楽番組の多さからステレオ放送開始への検討が始まり、経営が好転しだした1984年秋、遂に関東独立U局初となる[[音声多重放送]]の試験免許を取得した(翌年4月本免許)。これ以後、段階的にマスターを改修し、CMバンクを導入(これによりVTR制作のCMも放送しやすくなった)、さらにマスタースイッチャーの改修によりテロップの質も改善された。その後1989年になって5年がかりのマスター更新が完了した。
* TVKでの字幕(テロップ)は長らく[[写真植字]]による「紙テロップ」送出であったが、1990年代初頭には[[ソニー]]製のデジタルテロッパーといえる「SMC-3000C」がまず導入された(「おしゃトマ」末期ではスーパーがこの機材で作成・送出されていた)。しかし当時の電子テロッパーには、写真植字機ほどの汎用度がなかったうえ、「SMC-3000C」は文字よりは画像デザインの汎用度が高かったことから、あくまで番組で使われるテロップの補助的役割として使用されてきた。<br />その後、1995年に[[ラムダシステムズ]]製のデジタルテロッパー(TVKにおいては初代機)が導入され、テロップ電子化の先駆けとなったが、当初は生放送情報番組中心の運用<!--ニュースでの運用は数カ月たってから-->となった。その後、スタジオサブのスイッチャーがリニアキー対応となり、透過ベースや透過文字など、綺麗なテロップが出せるように進化した。2002年にはテロッパー自体から多種多様な特殊効果を出せる「後継機」へ更新され、新社屋移転後もフル稼動している。しかしこの機材も1サブ、2サブを中心にHD送出には完全対応していない機材も存在するため、HD出力が可能な「完全HD対応機」への完全更新が今後の課題と言えよう<!--Just Japan プラスはHD対応機で制作-->。
* スポーツコーダー(スポーツ中継用の電子テロッパー)としては[[興和]]製の機材が古くから導入されており、80年代半ばにプロ野球中継、東京六大学野球連盟リーグ戦・東都大学野球連盟リーグ戦・神奈川大学野球連盟リーグ戦野球中継、高校野球中継では写植同様の綺麗なフォント<ref>写研のフォントは、その使用が厳しく制限されており、写研が製造した「純正機」でしか写研フォントは使用できない。このため、興和製スポーツコーダーや時刻表示装置において使用されている、写研ナール体に酷似したフォントはあくまで「丸ゴシック」であり、写研のナール体とは若干異なる。</ref>によるスコア表示が実用化されていた。
* [[1987年]]の横浜が舞台だったテレビドラマ『[[あぶない刑事]]』(セントラル・アーツ製作、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系)の第22話「動揺」において、スタジオ調整室のシーンで撮影協力をしている(撮影協力のクレジットは「テレビ神奈川」ではなく「TVKテレビ」)。
* [[内田康夫]]の小説「横浜殺人事件」の主人公である横浜テレビの藤本紅子のモデルは、映画通で知られ「[[TVグラフィックおしゃべりトマト|おしゃべりトマト]]」「[[TVグラフィック42番街]]」などの映画コーナー、「[[HAMA大国]]」の司会、「[[1230アッと!!ハマランチョ|とっておき自遊食感ハマランチョ]]」のプロデューサーを担当していた坂本紅子氏(報道制作局→現・編成局広報担当)である。
* 『ファンキートマト』『おしゃべりトマト』『ミュージックトマト』などのいわゆる「トマトもの」では、MCのことをDJ([[ディスクジョッキー]])ならぬVJ([[ビデオジョッキー]])と称していた時期がある。これは当時の地上波としては異例といえる、プロモーションビデオを大量に流す構成を踏まえ、DJをテレビらしい呼び名に置き換えた結果である。この名残で、現在でもtvkの放送中の番組での最長寿番組である「[[全米TOP40|ビルボードTOP40]]」での中村真理はVJと呼ばれている。なお「トマト」とはニューヨークの比喩である「ビッグアップル」の「アップル」にあやかって付けられたという説がある。
* 今は各局で一般化しているが、天気予報の録音によるマスター自動送出システムを日本で初めて運用したのはTVKである。1986年春から実用化され、あわせて映像も字幕のみからキー局同様CGによるものへ改められた。開始当初は予め録音された音声をそのまま流すだけであったが、1999年にシステムを更新し、音声の組み合わせによるリアルタイム放送が可能となった。
* TVK絶頂期の開局20周年([[1992年]])の際は、耳と「20」の文字を模した記念ロゴと共に[[ユニコーン (バンド)|ユニコーン]]の[[奥田民生]]や[[爆風スランプ]]の[[サンプラザ中野くん|サンプラザ中野]]らが「TVKどうもありがとう!」「ごめんねTVK!」などとライブで(むろんアドリブ)叫んでいるシーンをつないだスポットが大量に流された。また記念番組として収録ものでは[[桑田佳祐]]のアンソロジー「逃げろ!桑田佳祐」、生放送ものでは[[田代まさし]]、[[うじきつよし]]、[[篠原涼子]]司会の電リク特番があった。TVKにゆかりあるゲストも多数出演したが、TVK(もしくは[[ミューコム]])が版権を持つPVやライブ映像は邦楽・洋楽とあまりにストックが多すぎるが故、ごった煮な内容になり、ゲスト出演者の一人であった[[アン・ルイス]]は「(私は)レアな洋楽を流して欲しかった」とあからさまに不満を漏らした。しかし出演者が一致していたことは「ありがとう住友のオヤジ!」([[ミューコム#社長・住友利行氏とは|住友利行]]・現[[tvkコミュニケーションズ]][[ミューコム]]カンパニー代表取締役社長のこと)であった。
* [[PUFFY|パフィー]]が[[1997年]]、TVKの年越しライブ中継『PATIPATI TOMATO』へ出演したが、この際のエピソードとして、裏番組となるNHK(日本放送協会)の[[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]から出演依頼をうけていたものの、TVKの出演を選択した。これは売れる前からTVKの常連でパフィーをプロデュースしていた[[奥田民生]]がライブに出演していたという面も大きいとされ、「TVKを蹴ってNHKを取るだろう」との観測がされる中「TVKが天下のNHKに勝った」と一部には報道された。
* 1993年からはCATV向けの「Ch Yokohama」や、[[衛星放送|CS]]放送([[ディレクTV]])で「横浜ベイサイドテレビ」として同時放送されていたこともあった。([[1998年]]の横浜ベイスターズ優勝時は、このCS放送でベイスターズナイターを観ていた県外のベイスターズファンも多かった)が、[[2000年]]のディレクTVのサービス終了と同時に終了している。これは[[スカパー!|スカイパーフェクTV!]]でなくディレクTVを選択した経営判断の失敗であり、のちのTVKの経営に尾を引くことになる。
* TVKが幹事社となりKBS京都と共同制作したオムニバスドラマ『[[塩カルビ]]』([[西村雅彦]]主演)の記者会見において、店員役でレギュラー出演した[[豊岡真澄]]に「今度は'''普通のテレビ局'''のドラマがいい」と発言されてしまった。しかし『[[saku saku]]』など都内の芸能人・有名人らに熱烈な支持を持つ番組を存在することから、東京側から見てtvkがUHF局だからといってキー局と比べクオリティが全面否定されているわけではないことが分かる。またキー局関係者にも熱烈なファンを持つテレビ局として地位を築いている。
* かつて横浜そごう(現・[[そごう]]横浜店)とTVKの関係は緊密で、「キャプテンロコスタジオ」(2F)「みなとみらい21スタジオ」(地下1階)という2つのサテライトスタジオを設け、「カフェシティ」やかねてからあった夕方の[[ミューコム]]制作の生番組に威力を発揮した。しかし、バブル崩壊後にそごうが経営不振に陥ると、それらの番組は打ち切りとなり、ついにはスタジオ閉鎖、横浜そごうのTVK持株売却と、TVKとそごうとの関係は急速に悪化していった。
* TVKは1980年代から1990年代初頭にかけ、好景気と横浜そごうなど大スポンサーの存在が後ろ盾となり、経営状態は好調を持続していたが、バブル景気の終焉とともに、大スポンサー中の大スポンサーであったそごうの経営不振が経営の屋台骨を大きく揺さぶった。さらに[[神奈川県]]の財政危機や、TVKが最後まで反対した[[東京メトロポリタンテレビジョン|東京MXテレビ]]の開局がTVKにはカウンターパンチとなり、売り上げが30億円近くも減少(売上最高期の1/4近く、90億円→60億円)した。この煽りを受け自社制作番組は急速(70%→40%)に減り、2002年には売り上げで東京MXテレビに、2003年には自社制作率でも[[テレビ埼玉]]に抜かれる「非常事態」となった。ここまでになった理由としては、公安出身者を社長に据えるという報道機関にはあってはならない人事が県の意向で行われたこと、「ワンソフト・マルチユース」の意味をはき違えた再放送中心の番組編成(ほとんどの番組を再放送して枠を埋める)により、社内の士気が失われていったことなどが挙げられる。