「王沈 (西晋)」の版間の差分

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三十面相 (会話 | 投稿記録)
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太原郡晋陽県の人。読書を好み、文章が上手かった。王沈は幼い時に孤児となり、叔父の王昶に養われた。王昶は父のように王沈を養育し、王沈は継母や兄嫁に孝行を尽くした。[[曹爽]]の掾属となり、中書門下侍郎となった。曹爽が殺されると、免職となったが、後に治書侍御史・秘書監となった。
 
[[曹髦]]が[[皇帝]]となると、王沈は曹髦に「文籍先生」と呼ばれ、散騎常侍・[[侍中]]・典著作となった。曹髦は[[司馬望]]・王沈・[[裴秀]](曹髦に「儒林丈人」と呼ばれた)・[[鍾会]]らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いた。
 
この頃、王沈は[[荀顗]]・[[阮籍]]とともに『[[魏書 (曖昧さ回避)|魏書]]』を編纂したが、時勢に多々配慮した内容であり、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』に内容で劣ると言われている。