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[[Image:yanaizu-486-r1.jpg|thumb|250px|柳津ダムと柳津発電所。[[1952年]](昭和27年)完成。]]
[[Image:Katakado-485-r1.jpg|thumb|250px|片門ダム。[[1953年]](昭和28年)完成。]]
[[Image:Kaminojiri-495-r1.jpg|thumb|250px|上野尻ダムと上野尻発電所。[[1959年]](昭和34年)完成。]]
計画が策定された後最初に完成したのは'''沼沢沼発電所'''であった。戦前から計画されていたこの発電所は日本発送電の宮下発電所建設によって一旦中止された。だが戦後の1949年1月より再開され、東北電力に継承後1952年[[11月28日]]より発電が開始された。沼沢沼発電所は[[カルデラ湖]]である[[沼沢湖]]を上部調整池、既設宮下ダムを下部調整池として最大4万3,600キロワットを発電する。当時揚水発電としては日本最大、世界でも屈指の揚水発電所と呼ばれた。続いて宮下ダムの下流に'''柳津ダム・柳津発電所'''(出力5万キロワット)が1年6ヶ月という突貫工事で1952年完成。同時に建設が開始された只見川最下流部の'''片門ダム・片門発電所'''(出力3万8,000キロワット)がやや遅れて1953年6月に運転を開始した。水利権で東京電力と係争した'''本名ダム・本名発電所'''(出力7万8,000キロワット)は1954年6月より一部運転を開始し、[[1959年]](昭和34年)からは全出力運転を開始した。本名発電所は東北電力が管理する只見川流域の一般水力発電所の中では最大の出力を誇る。'''上田ダム・上田発電所'''(出力6万3,900キロワット)は1954年3月より運転を開始し、[[1960年]](昭和35年)に発電機を増設して現在の出力になった。その後宮下・柳津・片門の各発電所は出力を増強している。なお、伊南川に建設が計画されていた内川ダム及び辰巳山発電所計画は中止されている。
[[File:Agekawa Dam.jpg|thumb|250px|揚川ダム。只見特定地域総合開発計画で最も下流に建設されたダムである。[[1963年]](昭和38年)完成。]]
計画が策定された後最初に完成したのは'''沼沢沼発電所'''であった。戦前から計画されていたこの発電所は日本発送電の宮下発電所建設によって一旦中止された。だが戦後の1949年1月より再開され、東北電力に継承後1952年[[11月28日]]より発電が開始された。沼沢沼発電所は[[カルデラ湖]]である[[沼沢湖]]を上部調整池、既設宮下ダムを下部調整池として最大4万3,600キロワットを発電する。当時揚水発電としては日本最大、世界でも屈指の揚水発電所と呼ばれた。
 
計画が策定された後最初に完成したのは'''沼沢沼発電所'''であった。戦前から計画されていたこの発電所は日本発送電の宮下発電所建設よって一旦中止された。だが戦後の1949年1月より再開され、東北電力に継承後1952年[[11月28日]]より発電が開始された。沼沢沼発電所は[[カルデラ湖]]である[[沼沢湖]]を上部調整池、既設宮下ダムを下部調整池として最大4万3,600キロワットを発電する。当時揚水発電としては日本最大、世界でも屈指の揚水発電所と呼ばれた。続いて宮下ダムの下流に'''柳津ダム・柳津発電所'''(出力5万キロワット)が1年6ヶ月という突貫工事で1952年完成。同時に建設が開始された只見川最下流部の'''片門ダム・片門発電所'''(出力3万8,000キロワット)がやや遅れて1953年6月に運転を開始した。水利権で東京電力と係争した'''本名ダム・本名発電所'''(出力7万8,000キロワット)は1954年6月より一部運転を開始し、[[1959年]](昭和34年)からは全出力運転を開始した。本名発電所は東北電力が管理する只見川流域の一般水力発電所の中では完成当時最大の出力を誇った。'''上田ダム・上田発電所'''(出力6万3,900キロワット)は1954年3月より運転を開始し、[[1960年]](昭和35年)に発電機を増設して現在の出力になった。その後宮下・柳津・片門の各発電所は出力を増強している。なお、伊南川に建設が計画されていた内川ダム及び辰巳山発電所計画は中止されている。
電源開発が担当した只見川上流部ではまず'''田子倉ダム'''が先陣を切った。事業着手後補償問題を経て[[1955年]](昭和30年)にダム本体の工事に着手し1959年には貯水を開始。段階的に発電能力を増強しながら工事を進め、1961年11月に全事業を完成させた。出力38万キロワットは近年まで日本最大の出力を誇る一般水力発電所であった。続いて田子倉ダム下流16キロメートルの地点に'''滝ダム・滝発電所'''(出力9万2,000キロワット)を1959年7月に着工、田子倉発電所が放流する水を貯水して下流の水量を一定に保つ逆調整池としての機能を持ち1961年12月完成した。そして只見川最大の'''奥只見ダム'''は厳しい自然と闘いながら1953年より工事を開始、[[奥只見シルバーライン]]などの輸送用道路建設に続いて本体工事に着手。[[1962年]](昭和37年)6月9日完成した。出力36万キロワットは田子倉発電所に次ぐ日本第二位の規模を誇る発電所であった。続いて着手されたのは奥只見ダム直下流に建設された'''大鳥ダム・大鳥発電所'''(出力9万5,000キロワット)で、当初の計画にあった前沢ダムの規模を大幅に縮小した形で建設され、[[1964年]](昭和39年)12月に完成した。最後に着手されたのが'''大津岐(おおつまた)発電所'''(出力3万8,000キロワット)で、当初尾瀬原ダム関連の事業であったのがダム建設に対する反対運動激化によって単独での開発に変更され、[[1965年]](昭和40年)より工事を開始し[[1967年]](昭和43年)12月に運転を開始した。取水口である'''大津岐ダム'''は[[ロックフィルダム]]の一種で[[アスファルト]]をダム上流部に敷いて水を遮る、「[[アスファルトフェイシングフィルダム]]」と呼ばれる型式を日本で初めて採用したことが特徴である。
 
電源開発が担当した只見川上流部ではまず'''田子倉ダム'''が先陣を切った。事業着手後補償問題を経て[[1955年]](昭和30年)にダム本体の工事に着手し1959年には貯水を開始。段階的に発電能力を増強しながら工事を進め、1961年11月に全事業を完成させた。出力38万キロワットは近年まで日本最大の出力を誇る一般水力発電所であった。続いて田子倉ダム下流16キロメートルの地点に'''滝ダム・滝発電所'''(出力9万2,000キロワット)を1959年7月に着工、田子倉発電所が放流する水を貯水して下流の水量を一定に保つ逆調整池としての機能を持ち1961年12月完成した。そして只見川最大の'''奥只見ダム'''は厳しい自然と闘いながら1953年より工事を開始、[[奥只見シルバーライン]]などの輸送用道路建設に続いて本体工事に着手。[[1962年]](昭和37年)6月9日完成した。出力36万キロワットは田子倉発電所に次ぐ日本第二位の規模を誇る発電所であった。続いて着手されたのは奥只見ダム直下流に建設された'''大鳥ダム・大鳥発電所'''(出力9万5,000キロワット)で、当初の計画にあった前沢ダムの規模を大幅に縮小した形で建設され、[[1964年]](昭和39年)12月に完成した。最後に着手されたのが'''大津岐(おおつまた)発電所'''(出力3万8,000キロワット)で、当初尾瀬原ダム関連の事業であったのがダム建設に対する反対運動激化によって単独での開発に変更され、[[1965年]](昭和40年)より工事を開始し[[1967年]](昭和43年)12月に運転を開始した。取水口である'''大津岐ダム'''は[[ロックフィルダム]]の一種で[[アスファルト]]をダム上流部に敷いて水を遮る、「[[アスファルトフェイシングフィルダム]]」と呼ばれる型式を日本で初めて採用したことが特徴である
 
最後に着手されたのが'''大津岐(おおつまた)発電所'''(出力3万8,000キロワット)で、当初は尾瀬原ダムから放流される河水が下流に影響するのを抑制するための逆調整池として、またOCIの勧告で将来尾瀬原ダムが大規模に再開発された後は揚水発電の下部調整池として只見川本流の白戸川合流点付近、尾瀬と奥只見ダムの中間に建設される予定の'''大津岐ダム'''よりトンネルで導水して発電後、奥只見湖に注ぐ支流・大津岐川に放流するという計画であった。しかし尾瀬原ダム建設に対する反対運動激化によって単独での開発に変更され、ダム地点を大津岐川に移動させて[[1965年]](昭和40年)より工事を開始し[[1967年]](昭和43年)12月に運転を開始した。当初重力式であった大津岐ダムは建設変更地点の岩盤が堅固でなかったことや資材運搬コストが高いことなどから[[ロックフィルダム]]へ型式を変更。コスト縮減の合理化を目的に[[アスファルト]]をダム上流部に敷いて水を遮る、「[[アスファルトフェイシングフィルダム]]」と呼ばれる型式を日本で初めて採用したことが特徴である。
 
ここに只見特定地域総合開発計画に基づき計画された水力発電事業は一応の終結を見た。しかし奥只見ダムでは117名、田子倉ダムでは43名と[[労働災害]]によって[[殉職]]した従事者も多く、厳しい自然と険阻な峡谷という悪条件の中で首都圏と東北地方の電力供給のために命を散らした人がいたことも、忘れることの出来ない事実である。
 
=== 阿賀野川 ===
[[Image:Kaminojiri-495-r1.jpg|thumb|250px|上野尻ダムと上野尻発電所。[[1959年]](昭和34年)完成。]]
[[File:Agekawa Dam.jpg|thumb|250px|揚川ダム。只見特定地域総合開発計画で最も下流に建設されたダムである。[[1963年]](昭和38年)完成。]]
阿賀野川ではすでに新郷、山郷、豊実、鹿瀬の四発電所・ダムが戦前に建設されていたが、戦後も発電所の建設が進められた。
 
'''上野尻ダム・上野尻発電所'''(出力5万2,000キロワット)は山郷発電所と豊実発電所の間、[[磐越西線]][[上野尻駅]]付近に建設された。両発電所の間にある未使用の落差を有効に利用するために建設され、1959年6月に完成した。そして只見特定地域総合開発計画で建設されたダムの中で最も下流に建設されたのが'''揚川ダム・揚川発電所'''(出力5万3,600キロワット)で[[1963年]](昭和38年)に完成する。このダムは上流にある全発電所の水量を調整し、阿賀野川下流の水量を一定に保つための逆調整池として建設されたが、ダムの[[ダム#諸元|集水面積]]が約6,728平方キロメートルと広大であるため、莫大な水量を制御するため横一列に水門が並ぶタイプの[[重力式コンクリートダム]]である。こうしたタイプのダムとしては他に[[船明ダム]]([[天竜川]]・[[静岡県]])、[[池田ダム]]([[吉野川]]・[[徳島県]])、[[夜明ダム]]([[筑後川]]。[[福岡県]]・[[大分県]])があり、何れも河川に建設されたダム群中では最下流部に建設され位置している。
 
=== 黒又川 ===
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まず黒又川第一ダムと発電所が1958年[[2月17日]]に運転を開始し、続いて第二ダムと発電所の建設が行われた。ところが第二ダムが当初の有効貯水容量を1,000万立方メートルから5,000万立方メートルに拡張したことで、越後平野へ供給する灌漑用水が黒又川単独で賄えることになった。このため新潟県は1961年9月、電源開発に黒又川第四発電所と奥只見ダムからの分水計画の中止を申し入れ、第34回電源開発調整審議会で了承されたことで'''只見川からの分水計画は中止'''され、只見川の水は全て本流で一貫して利用されることになった。こうして、新潟県長年の課題であった「只見川分流案」は、思わぬ形で解決したのである。同時に黒又川第三発電所計画も中止になり、黒又川の水力発電計画は1964年[[1月14日]]に第二ダムが完成したことで終了した。なお、第二発電所の揚水発電は後に廃止され、一般水力発電所になっている。
 
=== 伊南川 ===
なお、只見川最大の支流である伊南川流域については計画が頓挫した。舘岩川との合流点下流に建設が予定されていた'''内川ダム・内川発電所計画'''であるが、基礎岩盤が思った以上に悪く高さ119メートル・貯水容量3億2,000万立方メートルの巨大ダムを建設するには不安が生じたことや、水没物件が多大である理由から建設を断念。これに伴い内川ダムからトンネルで導水して8万キロワットの発電を行う'''辰巳山発電所計画'''も内川ダム中止により計画が成り立たなくなったため断念を余儀なくされた。
 
一方伊南川は1947年から3年連続で水害の被害を受けていたこともあり[[建設省]]北陸地方建設局<ref>現在の[[国土交通省]]北陸[[地方整備局]]。</ref>が舘岩川合流点直上流部の伊南川に[[洪水調節]]を目的とした'''大桃ダム計画'''を[[1950年代]]後半より立てていた。内川ダムに比べると大幅に規模は縮小しているが、東北電力はこの大桃ダムに電気事業者として参加し、2万600キロワットの出力を有する'''大桃発電所計画'''を立てた。しかしこの大桃ダム計画も地盤や水量調査といった基礎調査を行うに留まり、[[1960年代]]前半には立ち消えとなった。これ以後伊南川本流では新規の水力発電計画は実施されず、戦前から稼働している'''伊南川発電所'''のみが残るに至った。
 
=== 送電 ===