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[[1960年]]7月に東芝音楽出版([[EMIミュージック・ジャパン|東芝レコード]])に移籍。同年8月に移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき60歳」が10万枚<ref>『坂本九 上を向いて歩こう』35頁。</ref>を売り上げ、初ヒットとなった(この曲は日航123便事故の慰霊式における鎮魂曲となる)。
 
1961年の「[[上を向いて歩こう]]」は日本国外でも大ヒットした。中でも1963年には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でもっとも権威のあるヒットチャート誌『[[ビルボード]]』の「[[Billboard Hot 100]]」で3週連続1位を獲得した。Billboard Hot 100で1位を獲得した日本人アーティストは、[[2009年]]現在、九だけである。この曲は後に英語歌詞が付いたが、1位を獲得したのは九の歌う日本語版であり、その点でもこれまで唯一の例である。この曲が1位を獲得した際、投売りの日本製品が売れ始め、[[醤油]]が売れ始めたきっかけになったとされる説も残されている。「上を向いて歩こう」は歌いだしが印象的な歌だが、レコーディングの時に初めてその「歩こうおうおうおぅ……」などと発音される語尾や、あまつさえ[[母音]]([[あ行]])の「おう」が、[[は行]]の「ほう」に聞こえたりする部分を聞いた作詞者の[[永六輔]]が、「何だその歌い方は!」と九に向かって激怒したと伝えられる<ref>永六輔『二度目の大往生』岩波書店〈岩波新書〉、1995年初版、137-138頁。</ref>。この独特の歌い方は母がやっていた[[小唄]]とプレスリーや[[バディ・ホリー]]の影響であるとも言われている<ref>『坂本九 上を向いて歩こう』51-52頁。</ref>。永六輔は後に、九の母の話から、九と[[邦楽]]の歌い方を結びつけて考えるようになった<ref>永六輔『二度目の大往生』岩波書店〈岩波新書〉、1995年初版、138-139頁。</ref>。
 
「上を向いて歩こう」の海外でのヒットで世界的に名前が知られたことで、国際的な活動も多かった。[[1964年]]の[[東京オリンピック|第18回オリンピック東京大会]]の[[ウェルカム]][[パーティー]]にゲスト出演し、サヨナラ東京』『」「君が好きを歌った。
 
また、[[1970年]]の[[日本万国博覧会]](大阪万博)の若手芸能人で万国博委員に起用される。さらに、[[讀賣テレビ放送|ytv]][[クイズEXPO'70]]の司会にも起用された。
 
歌手としての活動のほかに、テレビの司会や、映画、舞台などでも活躍した。福祉関係のボランティア活動に積極的に参加していたことも有名であった。