「寺内タケシ」の版間の差分

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公演が終わり碇矢と別れた寺内だが、後に米軍上瀬谷キャンプで[[ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ]]のベースとして活躍していた碇矢と再会、ジミー時田を紹介されて寺内はこのバンドに移籍した。しかし充実した時期を送っていたさなかに時田からクビを宣告される。しかしそれはこの頃ブームになっていたロカビリーに参入するために寺内をリーダーにした新しいバンドを作る意図があった事務所(東京ハワイアンズ)の作戦であった。そして寺内は、[[1962年]]8月、[[ほりまさゆき]]をボーカルにしたロカビリーバンド「寺内タケシとブルー・ジーンズ」を結成する。
 
寺内脱退後のクレージー・ウエストはその後「[[桜井輝夫]]と[[ザ・ドリフターズ]]」と改名。そして桜井輝夫に代わりマウンテン・プレイボーイズを脱退した碇矢が加入し、[[加藤茶]]、[[高木ブー]]、[[仲本工事]]、[[荒井注]]とメンバーが集まって以降は説明するまでもない。
 
== ブルージーンズ結成 ==
このときのとある演奏中に騒いでいた観客とステージ上の寺内、内田とが口論となったがそのとき「寺内さんの言ってることがわからないのか、もっと黙って聞けよ、他の観客が迷惑してるじゃないか!」と一喝したのが当時寺内の追っかけをしていた[[力也|安岡力也]]であった。
 
[[1964年]]から翌年にかけて[[ザ・ベンチャーズ]]や[[アニマルズ]]、[[アストロノウツ]]、[[スプートニクス]]といった海外のバンドがこぞって来日、世界のエレキの凄さを見せつけようと意気込んで乗り込んできたがベンチャーズはともかく他のバンドはことごとくブルージーンズの演奏の凄さに完全に屈し白旗をあげて帰って行くという伝説を作り上げてしまった。更に[[1965年]]には[[日劇ウエスタンカーニバル]]の音響監督に就任してイベントをエレキ一色に変えた。このことなどから世界的にも寺内の演奏は知られるようになり、この年多忙により実現しなかったが「[[エド・サリヴァン・ショー]]」の出演依頼が舞い込み、さらにアメリカの音楽雑誌「ミュージック・ブレーカー」に[[チェット・アトキンス]]、[[レス・ポール]]と並んで「世界三大ギタリスト」に選ばれた。このことから自分のオリジナルモデルを持つ2人に対抗して寺内のオリジナルモデルも作られることになり、ヤマハから''SG7'''、通称'''ブルージーンズ・カスタム'''が発売された。ただし最初は開発途中のものを勝手にヤマハが発売したために寺内が激怒、このためこのギターはブルージーンズの名を冠していない(後述)。後年になってようやく完成されたブルージーンズモデルが完成した。このシリーズのギターは日本人の小さな手でも弾きやすいデザインになっており、モズライトと並んで日本のエレキファンの間では絶大な支持を集めている。この頃から「'''[[津軽じょんがら節]]'''」に代表される民謡のカバーにも取り組み、エレキギターで民謡を演奏する独特の'''エレキ民謡'''を大成した。更に[[植木等]]の「遺憾に存じます」のバックバンドを務め、1965年の[[NHK紅白歌合戦]]出場を果たしている。
 
しかし加瀬が脱退した[[1966年]]に殺人的ハードワークがたたって病に倒れてしまう。当初の診断では「結核性リンパ腺炎」で明日をも知れない命として緊急入院と衝撃的なニュースとして大々的に報じられたが後に誤診と判明、実際は過労であり音楽関係者を安心させた。
 
== エレキ禁止令への対抗と社会的貢献 ==
第一期ブルージーンズ結成後しばらくして、エレキギターのバンドは不良少年の温床だという声が多くなってきた。特に'''「昭和の魔女狩り」'''とさえ呼ばれた[[栃木県]][[足利市]][[教育委員会]]に端を発した悪名高き'''「エレキギター禁止令」'''以降、世間のエレキへの抵抗感が強まるにつれ、寺内達の活動は困難になる。寺内のみならず、ベンチャーズなどにも会場の使用を認めない会場すら現れるという有様である。また、各教育現場でのエレキギターの使用禁止も行われ、生から寺内に対して「丸坊主にされた」、「退学処分にされた」等悲愴な手紙が多数届くようになった。それを受けて、寺内は各地の高校を渡り歩き、そこの校長と話をしてエレキの良さを認めてもらおうとしたが、ほとんどは門前払いで、話を聞いてくれたのは100校中3校だけだった。
 
落ち込む寺内は、原点回帰のため故郷の茨城に帰った。そして母校の土浦三高を訪ねると、校長は寺内を温かく迎え入れ、エレキの良さを理解し、寺内はブルージーンズと共に母校で演奏した。これが現在1500校を超えようとしている「[[ハイスクールコンサート]]」の第1校目であった。
 
そのさなかの[[1967年]]に「レッツゴー運命」([[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の「[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|運命]]」のリメイク。1967年[[11月30日]]発行のレコード・マンスリーのシングルチャートで5位を記録)で[[第9回日本レコード大賞]]編曲賞を受賞すると、それまでエレキに反対していた人たちは、手のひらを返したように口々にエレキのすばらしさを語るようになった。そして寺内がなぜそれまでエレキに反対したかと聞く問いただすと理由を答えられず謝罪することしかできなかったという。
 
[[1976年]]には[[ソビエト連邦|ソ連]]に住んでいて寺内の大ファンだという[[白血病]]に苦しんでいる8歳の少女に生演奏を聴かせるために3千万円の赤字と寺内企画の倒産を覚悟で8月ブルージーンズのソ連ツアーを決行した。この最中、[[9月6日]]に起こった[[ベレンコ中尉亡命事件|ミグ25事件]]にもひるまず、52日間に及んだこのツアーで観客42万人を動員、大成功に終わった。後に[[1981年]](45日間、観客130万人)、[[1984年]](43日間、観客57万人)にもソ連ツアーを行っている。この功績が認められ[[1981年]][[12月22日]]には[[日本国際連合協会]]から感謝状と[[国際連合]]が発行したピースメダル(ちなみに[[国連平和賞]]ではない。当時のマスコミが、ピースメダルと国連平和賞を混同して報道したため、誤解される原因となった)、84年には文化功労賞と音楽功労賞をそれぞれ授与された。なお、この年には[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]でもツアーを行っている。
 
また、[[1995年]][[1月17日]]に起こった阪神淡路大震災(奇しくも寺内の誕生日であった)でパニックになった現場で救助活動が遅れた反省を踏まえ、反省からパニック現場への誘導を適切にしたいという、市町村関係者の声を元に[[トヨタテクノクラフト]]と共同で災害対策車「非常災害用音響本部車」を開発、寺内が電器屋の息子のノウハウをここでも生かして設計を担当、さらに開発費用として2億5千万円を投資した。この車は2年後の[[1997年]]5月に完成した。余談だが開発最中、[[行川アイランド]]での屋外コンサート終了後に音響実験を行ったところ周りに民家がないはずなのにあまりの音の大きさに住民が驚いて殺到する事態となってしまった。この時、当の寺内は愛車のベンツでどこまで音が届いているかを確かめに遠くまで出ていたが、かなり遠くまで音がしっかり届いたことを確認して意気揚々と戻ってきたところ住民から大目玉を食らった。しかし寺内はその場で平謝りを繰り返しながらも実験が成功した事に満足していたという。
 
== 使用機材 ==
*'''[[モズライト]]・ベンチャーズモデル'''
第一期ブルージーンズの活動時に[[ベンチャーズ]]の[[ノーキー・エドワーズ]]を通じてモズライトの創始者であるセミー・モズレーからプレゼントされた物である。1965年前期型でシリアルナンバーは#1240。当初はサンバーストの[[ニトロセルロース]][[ラッカー]]仕上げであったが、「寺内タケシとバニーズ」時代に[[漆]]でボディを塗り直している。これについて寺内自身は鳴りのいい塗装は何かと考えたら漆に行き着いたと語っている(漆を早く乾燥させる為に[[遠赤外線]]を使ったという)。ボディの裏には[[彫金]]によって「TERRY.T.海を越えて・愛」の文字と、「手が千本欲しい」という願いを込めた[[千手観音]]像を刻んだ純金のプレートを取り付けている。近年全面的なリペアと漆の塗り替え(ボディのみならずネックもその際塗り替えられた)が行われているが、その際ボディとネックを分解せず漆を塗っている為、ジョイント部分に漆が浸み込み、本人曰く「セットネックのようになってる」そうである。[[ビブラート・ユニット#ビブラミュート|ビブラミュート]]のスプリングは特注の物に替えられ、アーム自体を低くセッティングしており、ブリッジはアーム作動時に前後へのがたつきを防止する為に、硬く折り畳んだ新聞紙を詰めている。アームが通常より大きく曲がっているが、寺内自身は「使っている内に自然に曲がったんだよ」と語っている。ピックアップのコイルは巻き直されている。現在はフレット打ち替えの際に大幅に指板が削られ、指板横のポジションマークが露出するまでに至っており、[[ヤマハ]]BJ-Customが登場してからはメインギターの座を譲っているが、名曲「レッツゴー!運命」等ここぞと言う場面で必ず登場している。このギターを渡された時の印象は「ギターを知ってる奴が作っている」ということである。*
 
*'''ヤマハSG-5'''
ヤマハが寺内タケシのために特別に製作したギターである。「日本楽器と言うからには日本一のギターを作って欲しい」との意向から、当時ヤマハが[[ハーモニカ]]に使用するために確保していた[[カエデ|メイプル]]等を特別に用意したギターで、映画[[エレキの若大将]]のロケに間に合わせる為に大急ぎで仕上げられ、[[東映]]の撮影所に直前になって持ち込まれたというエピソードを持つ。デザインは寺内自身が行い、モズライトから無駄な部分を省き、更に[[和弓]]のイメージを盛り込んだという。リアピックアップはシングルコイルを二つ繋げた形状となっており、バランサーノブでネック寄りとブリッジ寄りの音質を微妙にブレンドする事が出来る他、独自に開発した[[ビブラート・ユニット]]はピッチの可変量を調整できる等、当時多数存在した国内ギターメーカーの製品の中では群を抜いた完成度を持つ意欲的な仕様となっていた。しかし寺内本人のチェックを殆ど経ていない開発途上で急ごしらえのギターであったことと、それにもかかわらずヤマハが発売したため、寺内本人は「ブルージーンズ・カスタム」という名称の使用を認めず、モズライトを再び使用することとなる。1986年頃に復刻版を限定で発売したところ、寺内本人から「恥の上塗りだ!!」とヤマハのスタッフが叱責を受けたという。ちなみにこの12弦モデルは[[加瀬邦彦]]が長らく愛用しており、彼のトレードマークとなっている。
 
*'''ヤマハBJ-Custom'''
SG-5以来、完成度の高い「ブルージーンズ・カスタム」を目指して新たに寺内本人の全面的な協力を得て開発された、正式な「ブルージーンズ・カスタム」である。徹底的なミーティングを重ねた結果、ボディ形状意外は全て新規開発のパーツが採用されている。ピックアップは寺内タケシのために開発されたシングルコイルが二つ。ビブラート・ユニットは後にSGVシリーズにも採用される物の原型となったタイプながら、アームのアングルを自在に可変できる機構が備えられている。指板とボディには[[薔薇]]のインレイが施されている。ストラップピンもボディ後部のピンの位置を数箇所に自在に変えられる機構が備えられている。寺内曰く「弾き手のそれぞれの好みに合わせられるようにした」。当初はカスタムのみであったが、後に若干コストダウンを図った「BJ-PRO」が登場した他、カスタムにハイポジションを引きやすくするためにカッタウェイ部分に「スプーンカット」を加えた他、ビブラート・ユニットのブリッジサドルとテールピースの間隔を見直したアップグレード版カスタムが登場している。カスタムはパールホワイトのみであったが、BJ-PROにはキャンディアップルレッド、ブルーバーストなどのカラーバリエーションが登場している。またBJ-Customの12弦ギター、5弦ベースといったバリエーションも限定で登場した。いずれも特に厳選した木材やパーツを使用しているため、大量生産が不可能な為、現在はいずれも生産を終了している。
 
この他にも[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダージャパン]]・TERRY-1やモズライトのカスタムモデル等を多数使用している。
 
*'''アンプ、その他'''
アンプはPETERSONを主に使用。自身の背後に二つスピーカーを並べてステレオ出力している。1960年代に自作した5バンドグラフィックイコライザーを備えたパワーアンプやテープエコーを背後に置き、足元にエフェクターを並べている
。エフェクターはBOSSが主に使用されているが、改造が施されており、さらにペダルボードに組み込まれているため詳細は不明である。音に対して相当のこだわりがあり、音響関連のケーブルにはミリタリースペックの物を使用し、プラグには純度の高い金を採用している。ステージやスタジオではこれらを接続するケーブルが交差して電気的な干渉による外来ノイズが発生する事を避ける為に、ケーブルにアンカー(ケーブルを交わす枕)をかませている。また機材車にも荷室に湿度や温度を一定に保つ空調システムを搭載し、移動中の過度の振動によって楽器にストレスが掛かり、トラブルの元凶とならないよう[[サスペンション|エアサス]]を装備し、振動の発生を抑える工夫を施している。弦は自身が開発に参加したオリジナルの弦(レギュラーゲージ。.010~.046)を使用。ピックはオニギリ形の薄めのピックを使用している。
 
== 代表曲 ==
*パイプライン
*ダイヤモンド・ヘッド
*エル・クンバンチェロ
*[[イン・ザ・ムード]]
*雷雲(RAIUN)([[村下孝蔵]]の作曲)
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