「オスカル1世 (スウェーデン王)」の版間の差分

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オスカル1世は、[[立憲君主制]]のスウェーデンにおいて、[[王権]]の限られた[[君主]]ではあったものの、独自の才覚を発揮した。反動的だった父とは異なり、彼は[[政府]]の主導する改革を積極的に後押しし、改革的な法案が斬新的に成立するのである。この時代は、[[1848年革命]]に見られる様な[[自由主義]]がスウェーデンにも上陸し、王制廃止を主張する[[暴動]]が起きたが、[[ウィーン体制]]を脅かすような急激な改革には反対し、武力でもって鎮圧させた。
 
また、この頃、[[北ヨーロッパ]]全土に沸き上がった[[ナショナリズム]]、[[汎スカンディナヴィア主義]]にオスカル1世も傾倒し、これを支持した。オスカル1世は、この[[主義]]の牽引者となり、[[ヨーロッパ]][[列強]]([[神聖同盟|五大国]])に対抗していくのである。[[1848年]]、[[デンマーク]]において第1次[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]が勃発すると、オスカル1世はデンマークを全面的に支持し[[フュン島]]へ軍を派遣したが戦闘には加わらなかった。[[戦争]]が[[ホルシュタイン]][[公国]]を支持する[[プロイセン王国|プロイセン]]の介入によって硬直化すると、オスカル1世は独自に列強と交渉し休戦に至らしめた。この外交的な成功は、ヨーロッパにオスカル1世の[[名声]]を高めたと言えたが、一方で列強の警戒心を呼んだ。汎スカンディナヴィア主義の政治的な一面には、デンマークの王位継承問題も含まれ、[[ベルナドッテ朝|ベルナドッテ家]]のデンマーク王推戴による[[カルマル同盟]]の再現の狙いもあったが、[[ロンドン議定書]]においてそれは否定された。
 
また[[1853年]]には、ウィーン体制の崩壊を象徴する[[クリミア戦争]]が勃発した。欧州列強を分裂させたこの戦争にもオスカル1世は関心を示し、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、[[フランス第2帝政|フランス]]の支持の元、[[フィンランド]]奪回を目論むのである。オスカル1世は当初は中立を宣言するもこれを注視し、イギリス・フランスの[[バルト海]]への[[艦隊]]派遣を支援した。英仏艦隊はフィンランド沿岸を制圧したが、これに対し[[ロシア帝国]]は[[機雷]]を用いてフィンランド上陸を阻止したため、オスカル1世は慎重策を取らざるを得なくなり、結局クリミア戦争は、スウェーデンが[[宣戦布告]]する直前で終結してしまった。ただ、スウェーデンにとって悲願であった、[[オーランド諸島]]の[[非武装地帯|非武装]]化をロシアに認めさせる事だけは成功した。
 
オスカル1世は英仏列強と協調し、ロシアからの脅威を排除し、場合によっては[[武装中立]]を放棄する政策を取ったが、[[中立主義]]を望む政府や国民には受け入れられなかった。また[[1857年]]には、デンマークとの軍事同盟も検討したが、政府によって否定された。これには「[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]」にさらされるデンマークと協力してプロイセンからの脅威を排除するためであったが、[[同盟]]を結ぶことは、[[紛争]]への参戦は確実となるため、政府は消極的であった。彼のこの様な政策の背景には、汎スカンディナヴィア主義の[[理想]]と、大国時代への郷愁があった。彼の時代が北欧ナショナリズムの頂点であった。デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの統一国家への移行が真剣に唱えられ、それらは北欧諸国民の熱烈な支持を受けていた。また、[[フィンランド人]]もこの[[主義]]に共鳴し、後の[[フィンランド大公国|フィンランド]]ナショナリズムへと発展して行った。しかしこの主義は、王権復活を拒む[[北欧諸国]]政府の警戒心を呼び、北欧諸国民の期待に答える事はなかった。この理想は王太子カールに引き継がれて行くが、オスカル1世の晩年にはすでに退潮の兆しが見え始めていた。
 
オスカル1世は1857年に病に倒れ、息子で王太子のカール(次代の国王[[カール15世 (スウェーデン王)|カール15世]])が[[摂政]]となった。1859年7月8日、オスカル1世は死去し、スウェーデンの[[大国]]復興の夢は、完全に過去のものとなった。