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'''ニクラス・アレクサンデション'''('''Niclas Alexandersson''', [[1971年]][[12月29日]] - )は[[スウェーデン]]出身の[[プロフェッショナル (サッカー)|サッカー選手]]。ポジションは[[ミッドフィルダー]]、[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]。
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両サイドのサイドハーフ、サイドバックのポジションをこなした元[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン代表]]選手。1988年に[[ハルムスタッドBK]]でプロデビューを果たして下済みを終えた後、[[アールスヴェンスカン]]の強豪クラブ[[IFKヨーテボリ]]に1年間所属し、レギュラーとして活躍してリーグ優勝を経験。その後イングランドに渡り、[[プレミアリーグ]]の[[シェフィールド・ウェンズデイ]]に移籍。2部降格寸前だったチームを支え、ファンの人気を博した。その実力を同リーグの[[エヴァートンFC]]がいち早く見抜き、同クラブから勧誘を受け移籍。2001年、2002年ではチームの主力として活躍した。しかし2002年のシーズン中に大怪我に見舞われると、残りの試合を失うとともに、回復した2003年をも出場機会を失ってしまう。彼いわく「自分がダメな選手だと思った」時期だったという。その後出場機会を求めて2003年のシーズンの途中に[[IFKヨーテボリ]]への移籍を表明。[[IFKヨーテボリ]]では移籍直後からレギュラーとして定着し、順調に自分のプレーを取り戻して、2005年からはキャプテンとしてチームを引っ張った。
代表では1993年のオーストラリア戦で代表デビュー。[[1994 FIFAワールドカップ]]は当然ながらメンバーに呼ばれなったものの、大会後からは毎試合のように代表に召集され、スェーデン代表の右サイドハーフの座を自分のものにした。[[UEFA欧州選手権2000]]では背番号11でレギュラーとして出場。大会後は[[ホーカン・ミルド]]から背番号7を継ぎ、以降から背番号は7番が定着した。[[2002 FIFAワールドカップ]]でも全試合に出場し、初戦のイングランド戦では強烈なミドルシュートによる同点ゴールを決めるなど、「死の組」といわれたグループFの1位通過に大きく貢献した。しかしその後、クラブでの出場機会の減少により代表からも遠ざかってしまう。それにより[[UEFA欧州選手権2004]]の召集も逃してしまった。その後の[[IFKヨーテボリ]]への移籍により何とか自分のプレーを取り戻すも、[[クリスティアン・ヴィルヘルムション]]の台頭により、[[フレドリック・ユングベリ]]の控えとして左サイドが主戦場となった。しかし[[2006 FIFAワールドカップ]]予選中、「攻撃性」を期待されて右のサイドバックに抜擢された。それが思いのほか機能し、以降サイドバックが定着し、[[2006 FIFAワールドカップ]]では熾烈なポジション争いの後全4試合を右サイドバックでフル出場を果たした。[[UEFA欧州選手権2008]]予選時では一時期規律違反によりチームから抜けていた[[クリスティアン・ヴィルヘルムション]]の代わりに右サイドハーフでプレーするが、[[UEFA欧州選手権2008]]本戦ではサイドバックで出場した。初戦での怪我により出場は1試合にとどまったが、この大会を機に代表を引退した。合計109キャップ、7ゴールの代表キャリアとなった。
スピードのあるドリブル、精度の高いクロス、豊富な運動量や戦術理解力などサッカー選手としての基本能力全てが高レベルである。シュートも正確である。[[IFKヨーテボリ]]では背番号10番を背負う司令塔であったものの、代表では[[2006 FIFAワールドカップ]]付近からサイドバックにも抜擢されるマルチローラーである。▼
引退後は[[ヨーテボリ]]のある学校の教師として働いている(学問に関してではなく)。また、ファッションモデルなどとしても活動しており、スウェーデンの雑誌の表紙を飾ることもある。また、サッカーに関しては、チャリティマッチなどによく参加している。引退に関して後悔してないと語る。彼自身は三兄弟の長男だが、一番末の弟である[[ダニエル・アレクサンデション]]も[[IFKヨーテボリ]]に所属するサッカー選手である。
== プレースタイル ==
▲スピードのあるドリブル、精度の高いクロス、豊富な運動量や戦術理解力などサッカー選手としての基本能力全てが高レベルである。シュートも正確
父親に両足を使えるように訓練され、両足を起用にこなす。
==所属クラブ==
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