「ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー」の版間の差分

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1916年に当時まだ秘密だった[[戦車]]部隊の作戦将校に配属され、その戦車に関する教範類を作成に携わり、戦車を用いた作戦計画の立案に関わる。1917年の[[カンブレーの戦い]]で戦車部隊を主力部隊とした攻勢作戦を計画した。また第一次世界大戦においてフラーは「戦いの原則」を検証しており、1916年に戦いの原則についての論文を匿名で提出し、1921年に野外要務令としてまとめた。
 
戦後フラーは陸軍省に勤務して戦車の戦闘教義についての研究活動に取り組み、1926年に帝国参謀本部[[軍事顧問]]として多くの論文を発表して戦車戦術の開発を行った。しかしこれらの多くは戦後の軍縮気運と保守主義によって反発にあい、多くが実現せず、陸軍内でも煙たがられることがあった。実際に1922年にフラーが陸軍大学校の主任教官だったときに装甲実験部隊が大学で立ち上がったときにもフラーは遠ざけられ、別の歩兵将校が責任者となった。また1927年にフラーは歩兵部隊の指揮官に任官され、[[インド]]のボンベイ軍管区司令官に任命されたが、フラーはそれを左遷と考えて任命を拒否し、1933年まで俸給半減の処分を受け、辞職した。
 
その後は軍事問題と[[哲学]]について数多くの著作を残し、1966年に死去した。彼の機甲戦の理論は電撃戦の理論としてのちに[[ドイツ]]で復活することとなる。