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| 編集 = [[ウォルター・マーチ]]<br />リチャード・チュウ
| 配給 = [[パラマウント映画]]
| 公開 = {{flagicon|USA}} 1974年4月7日<br />{{flagicon|Japan}} 1974年11月26日
| 上映時間 = 113分
| 製作国 = {{USA}}
 
== 概要 ==
[[ファイル:Union Square, SF from Macy's 1.JPG|thumb|left|220px250px|映画冒頭の盗聴シーンの舞台となったサンフランシスコのユニオンスクエア]]
=== 作品の背景 ===
映画の構想自体は、監督の[[フランシス・フォード・コッポラ]]が1960年代中盤から暖めていたものである。コッポラによれば、脚本執筆の切っ掛けとなったのは映画監督の[[アービン・カーシュナー]]との会話であるという。カーシュナーと[[盗聴]]について話し合っている時、その技術や専門家に興味を示したコッポラに、カーシュナーが盗聴の第一人者であるハル・リップセット<ref group="注" >映画中で登場人物がリップセットについて言及するシーンがある。また、リップセットは技術アドバイザーとして映画にクレジットされた。</ref>についての資料を送ったのが始まりである。
 
リップセットのような実在の盗聴のプロフェッショナルたちの話のほか、[[ミケランジェロ・アントニオーニ]]監督作品の『[[欲望 (映画)|欲望]]』や[[ヘルマン・ヘッセ]]の『[[荒野のおおかみ]]』<ref group="注" >映画の主人公ハリー・コールの名前は、『荒野のおおかみ』の主人公ハリー・ハラーからとられたものである。</ref>といった創作物もコッポラの脚本執筆のモチーフになった<ref>Cowie p. 86</ref>。[[1972年]]に公開され『[[ゴだし当時のコドファーザー (ポラは映画)|ゴッドファーザー]]』の圧倒的な成功で監督としてまだ駆け出し名声と潤沢存在であり、自分の望んだ映画を撮れる立場では撮影資金を得かっコッポラが、満を持してので製作は見送られること取り掛かった野心作である
 
その後、[[1972年]]に公開された『[[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]]』の圧倒的な成功で監督としての名声と潤沢な撮影資金を得たコッポラが、満を持して製作に取り掛かることになった。
 
=== 映画製作 ===
映画の撮影は1972年の[[11月26日]]から開始された<ref>Schumacher p. 142</ref>。『ゴッドファーザー』製作の時のように、コッポラの監督としての能力に不信感を持った映画会社の重役たちからの掣肘はなかったものの、撮影中にコッポラは精神的にも物理的にも様々な困難に対処する必要に迫られた。脚本は一応完成していたものの、コッポラはその出来に不満を感じており、映画の幕切れに関して最後まで頭を悩ませることになった<ref>Schumacher p. 143</ref>。コッポラは当初撮影監督に[[ハスケル・ウェクスラー]]を起用していたが、途中で意見が対立したためウェクスラーを解雇し、代わりに『[[雨の中の女]]』で撮影を担当した[[ビル・バトラー]]を呼び戻した。そのため撮影が困難だった冒頭の[[ユニオンスクエア (サンフランシスコ)|ユニオンスクエア]]のシーン以外を破棄し、再度取り直すことになった<ref>Jeff Stafford、“[http://www.tcm.com/tcmdb/title.jsp?stid=71469&category=Articles The Conversation: Overview Article]”(参照:2009年1月31日)</ref>。映画の大半は[[ロケーション撮影]]であったため、製作撮影費用を節約することは出来たが、その代償として照明や音響、場所の確保等の技術的問題が多く生じることになった<ref>Schumacher p. 144</ref>。
 
製作期間の後半はコッポラ本人が『[[ゴッドファーザーPARTII]]』の撮影準備で忙しかったので、映画の音響を担当した[[ウォルター・マーチ]]が編集作業にも携わることになった。映画のエンディングを現在の形にするようにコッポラに助言したのは、マーチであったとされる。マーチの映画製作における貢献は絶大であり、映画評論家の[[ピーター・コーウィー]]は、彼のことを本作品の共同製作者とまで呼んでいる<ref>Cowie p. 87</ref>。映画撮影は[[1973年]]の3月に終わり、それから1年以上の編集期間を経て、[[1974年]][[4月7日]]に公開された。
 
=== 公開後 ===
本作品の制作費は180万ドルと、当時の[[ハリウッド]]製大作映画と比べて控えめなものであったが、興行成績が振るわず結局作費を回収することは出来なかった<ref>Lillian Loss (1982). ''Some Figures on a Fantasy: Francis Coppola''.</ref>。興行的には今ひとつだったものの、批評家たちは本作品を完成度の高い[[スリラー]]として賞賛、コッポラの監督としての評価を更に高めることになった。コッポラも後にインタビューで、本作品のことを彼のキャリアの中で最も好きな映画だと述べている。その理由は、本作品が『ゴッドファーザー』や『[[地獄の黙示録]]』といった原作付きの映画と違い、コッポラ自身が書き上げた脚本に基づいた個人的なものだからだという<ref>Gene D. Phillips (1989). ''Francis Ford Coppola Interviewed''.</ref>。
 
1974年の[[カンヌ国際映画祭]]では最高賞であるグランプリ(翌[[1975年]]から現在の正式名である[[パルム・ドール]]に改称)を受賞。同年度の[[アカデミー賞]]において[[アカデミー作品賞|作品賞]]と[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]、[[アカデミー録音賞|録音賞]]の3部門にノミネートされるが、皮肉なことに同じコッポラ監督・脚本作品である『ゴッドファーザーPARTII』(作品賞と[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]を含む11部門にノミネート)に阻まれ受賞には至らなかった。
== ストーリー ==
{{ネタバレ}}
[[ファイル:Embarccenter.jpg|thumb|right|260px|主人公の依頼人の会社として映画に登場した、サンフランシスコのエンバカデロ・センター]]
[[サンフランシスコ]]在住の盗聴のプロフェッショナル、ハリー・コール。通信傍受の権威としての輝かしい名声とは裏腹に、彼の私生活は孤独そのものだった。それは他者の秘密を盗み聞きするという盗聴という仕事を生業にしていながら、ハリーが自らの[[プライバシー]]の保持に異常に気を使っているからだった。そのためにハリーは、彼とより親密な交際を求める愛人とも別れる羽目になってしまう。そんな彼の唯一の心の支えは、厳重に外部から隔離された自室で、[[ジャズ]]の調べに合わせて[[サクソフォン]]を演奏することだった。
 
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
623

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