「ディアドコイ戦争」の版間の差分

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==第一次ディアドコイ戦争(紀元前322年-紀元前320年)==
===ぺルディッカスの台頭と滅亡===
ペルディッカスはアンティパトロスとの連携を狙いその娘との結婚を申し出たが、大王の母[[オリュンピアス]]が彼に自分の娘、すなわち大王の妹クレオパトラとの結婚を勧めた。そこでペルディッカスはまずアンティパトロスの娘と結婚し、すぐ離婚してクレオパトラと結婚することを計画した。このことを知ったアンティパトロスはクラテロスやプトレマイオスと共に、ペルディッカスと対決する姿勢を明確にした。そこでペルディッカスは、まずプトレマイオスの打倒を目指し大王の家族を伴ってエジプトに遠征し、また彼の支援を受けていたエウメネスに小アジアで地歩を固める事を要請した。対するアンティパトロスは自身がエジプトに赴き、クラテロスを小アジアに送ってエウメネスと対戦させた。ペルディッカスは[[エジプト遠征]]の最中、彼に不満を抱いていた[[セレウコス1世|セレウコス]]らによって暗殺されたが、その二日前にはクラテロスがエウメネスによって敗死させられている([[ヘレスポントスの戦い]])。
 
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アンティゴノスは[[紀元前319年]]の[[クレトポリスの戦い]]でペルディッカスの弟[[アルケタス (オロンテスの子)|アルケタス]]を破って自殺に追い込み、続いてエウメネスに矛先を向けた。アンティゴノスはエウメネスを[[ノラ]]に包囲したが、紀元前319年にアンティパトロスが病没したことで事態は新たな局面に向かいだした。アンティパトロスは自分の後継者として息子の[[カッサンドロス]]ではなく年長であるとの理由からクラテロスの副官だった[[ポリュペルコン]]に譲ったが、これに不満をもつカッサンドロスがアンティゴノスらと共にポリュペルコンと相対する姿勢を見せた。劣勢に立たされたポリュペルコンはその打開のためにエウメネスを支援し、包囲を抜け出したエウメネスは[[メソポタミア]]地方で軍団を掌握してアンティゴノスと対戦した。[[紀元前317年]]に彼はアンティゴノスとパラエタケネにて戦った([[パラエタケネの戦い]])が、決定打を与えるには到らず、双方引き分けに終わった。続く紀元前316年の[[ガビエネの戦い]]でエウメネスは敗れたが、敗北自体はそう致命的ではなかった。しかし、味方の裏切りによって彼は敵に引き渡され、処刑された(あるいはアンティゴノスはかつての友を直接殺すが忍びないとして餓死させようとしたが移動の際に勝手に部下が喉をかき切って殺したとも)。エウメネスに勝利したことでエウメネスの遺領やエウメネスに組していた太守たちを配下に加えたアンティゴノスは小アジアから東方にかけての広大な地域を制圧し、さらに東方支配の野望を示したメディア太守ペイトンを滅ぼし、名声・実力ともディアドコイの中で突出した存在になっていった。
 
===マケドニア王家の断絶凋落===
大王の家族は、ペルディッカスの死後アンティパトロスによってマケドニア本国に戻されていた。そのアンティパトロスの死後ポリュペルコンとカッサンドロスが対立したことは前述の通りだが、紀元前317年にポリュペルコンが[[ペロポネソス半島]]へと遠征した留守にフィリッポス3世の妻[[エウリュディケ3世]]がクーデタを起こしカッサンドロスと結んだ。これに対してポリュペルコンに同行していたオリュンピアスがマケドニアに戻り、クーデタを鎮めフィリッポス3世とエウリュディケ、及びその與党を粛清した。しかしペロネソスからリュペルコン派を破ったカッサンドロスがペロポネソスから戻るとオリュンピアスは孤立し、翌紀元前316年にカッサンドロスに降伏、処刑された。これによって大王の子アレクサンドロス4世はその母ロクサネと共にカッサンドロスの保護下に入ることになった。
 
カッサンドロスはその後大王の妹テッサロニケと結婚していたが、紀元前310年にロクサネとアレクサンドロス4世を暗殺した。いずれもマケドニア王位を狙っていたためと言われている。また零落していたポリュペルコンがアンティゴノスの支援を受けて大王の庶子ヘラクレスと共にマケドニア入りを目指していたが、カッサンドロスはポリュペルコンに賄賂を贈りつつ説き伏せ、ヘラクレスとその母を殺させた。これによって大王直系の人間が全員死亡しただけでなく、王位継承権を持つのはカッサンドロスのみという状況になった。
 
== 第三次ディアドコイ戦争(紀元前314年-紀元前311年) ==
===アンティゴノスの台頭===
小アジアからシリア・メソポタミア北部にかけてを支配したアンティゴノスだったが、その勢力があまりに強大であったために他のディアドコイとの対立が激化した。[[紀元前315年]]、バビロンのセレウコスがアンティゴノスを恐れてエジプトに逃れたことから事態は表面化し、アンティゴノスはギリシアに渡るための船を得るために[[歴史的シリア|シリア]]に進攻した。これによりプトレマイオスとの戦端が開かれ、翌年にはカッサンドロスの支配するギリシアに上陸し[[エーゲ海]]の諸島とペロポネソス半島の大半を制した。一方プトレマイオスはシリアに進攻、[[ガザ]]でアンティゴノスの息子[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス]]の軍を破った([[ガザの戦い]])。この報を受けてアンティゴノスはギリシアからシリアに移動しプトレマイオスと対峙したが、プトレマイオスの支援を受けたセレウコスがバビロンに復帰したためセレウコス以外のディアドコイらと講和しセレウコスを攻撃した([[バビロニア戦争]])。しかし、セレウコスはアンティゴノス側の[[ニカノル (太守)|ニカノル]]を[[チグリス川|ティグリス]]河畔で奇襲し大勝するなど、アンティゴノスのバビロン攻撃を頓挫させた。
 
===マケドニア王家の断絶===
小アジアからシリア・メソポタミア北部にかけてを支配したアンティゴノスだったが、その勢力があまりに強大であったために他のディアドコイとの対立が激化した。[[紀元前315年]]、バビロンのセレウコスがアンティゴノスを恐れてエジプトに逃れたことから事態は表面化し、アンティゴノスはギリシアに渡るための船を得るために[[歴史的シリア|シリア]]に進攻した。これによりプトレマイオスとの戦端が開かれ、翌年にはカッサンドロスの支配するギリシアに上陸し[[エーゲ海]]の諸島とペロポネソス半島の大半を制した。一方プトレマイオスはシリアに進攻、[[ガザ]]でアンティゴノスの息子[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス]]の軍を破った([[ガザの戦い]])。この報を受けてアンティゴノスはギリシアからシリアに移動しプトレマイオスと対峙したが、プトレマイオスの支援を受けたセレウコスがバビロンに復帰したためセレウコス以外のディアドコイらと講和しセレウコスを攻撃した([[バビロニア戦争]])。しかし、セレウコスはアンティゴノス側の[[ニカノル (太守)|ニカノル]]を[[チグリス川|ティグリス]]河畔で奇襲し大勝するなど、アンティゴノスのバビロン攻撃を頓挫させた。
マケドニア王家を掌握したカッサンドロスはその後大王の妹テッサロニケと結婚していたが、紀元前310年にロクサネとアレクサンドロス4世を暗殺した。いずれもマケドニア王位を狙っていたためと言われている。また零落していたポリュペルコンがアンティゴノスの支援を受けて大王の庶子ヘラクレスと共にマケドニア入りを目指していたが、カッサンドロスはポリュペルコンに賄賂を贈りつつ説き伏せ、ヘラクレスとその母を殺させた。これによって大王直系の人間が全員死亡しただけでなく、王位継承権を持つのはカッサンドロスのみという状況になった。
 
== 第四次ディアドコイ戦争(紀元前308年-紀元前301年) ==
===アンティゴノスの滅亡===
他方アンティゴノスがセレウコスと対峙する間にプトレマイオスは[[キプロス島]]からキリキア(小アジア南部)、さらにはギリシアへと進出した。プトレマイオスの勢力の伸張に対してアンティゴノスはデメトリオスをギリシアに送り込み、その軍は[[紀元前306年]]に[[サラミスの海戦 (紀元前306年)|サラミス海戦]](キプロス沖、[[ペルシア戦争]]中のものとは場所が異なる)でプトレマイオスを破った。この敗戦でプトレマイオスはエジプトに撤退した。勝報を受けたアンティゴノスは自身をマケドニア王であると宣言し、またデメトリオスを共同統治者とした。さらにアンティゴノスはエジプトを攻撃したがこれは失敗し、プトレマイオスは翌年王位に就くことを宣言した。カッサンドロス、セレウコス、リュシマコスもそれに倣って王を称した。
 
その後[[ロードス包囲戦]]の後デメトリオスがギリシアでカッサンドロスに対して優勢に戦いを進め、[[紀元前302年]]にはアンティゴノスは自身を盟主とするヘラス同盟をギリシアで結成した。追い詰められたカッサンドロスは講和を求めたが、無条件降伏を求められたためにプトレマイオスやトラキアのリュシマコス、さらにセレウコスらに対アンティゴノスの戦いを呼びかけた。[[紀元前301年]]、アンティゴノスとデメトリオスはフリュギアのイプソスでセレウコスとリュシマコスの連合軍と対戦したが、この戦いでアンティゴノスは戦死し、デメトリオスも敗走するなど大敗を喫した([[イプソスの戦い]])。