「モンゴル帝国帝位継承戦争」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''モンゴル帝国帝位継承戦争'''は、[[チンギス・カン]]の四男である[[トルイ]]の子、[[モンケ]](第4代皇帝)、[[クビライ]]、[[フレグ]]([[イルハン朝]]の創始者)、[[アリクブケ]]の内[[クビライ]]とアリクブケによって帝位([[ハーン#モンゴル帝国のハーン|大ハーン]]位)を巡って行われた戦争。最終的にクビライが勝利を収め、第5代皇帝(大ハーン)となった。
 
'''アリクブケの乱'''という名称が一般的ではあるが、「[[集史]]」を始めとする[[ペルシア]]方面で書かれた多くの史書がアリクブケを大ハーンの一人として扱っていること、また開戦当初は[[ジョチ]]家・[[チャガタイ]]家などほとんどの帝国の構成員がアリクブケを支持する立場をとったことを示す資料が数多く残っていることから、クビライこそが当初は反乱者であり、この名称は中華風の正統主義に立つ漢文文献に影響された誤りだという説が近年出されており、これに従った。
7行目:
[[1251年]]に即位した大ハーン・モンケの下、東西での2大遠征が決定された。クビライによる[[南宋]]侵攻とフレグによる[[西アジア]]遠征である。
 
しかしこのうち、漠南漢地大総督に任命されたクビライは南宋を侵攻するにあたって、正面攻撃による短期決戦を避け、[[雲南・大理]]遠征]]を行うなど長期戦の構えを明らかにすると、皇帝モンケはこれに不満を持ち、一時クビライを更迭するなどし、自ら南宋侵攻の指揮を執ることにした。
 
しかし[[四川省|四川]]方面から南宋に侵攻しようとしたモンケは、全軍の中で突出しすぎる形となり、釣魚山の軍陣内で[[1259年]]8月11日に悪疫にかかり死亡した。あまりにも唐突に死去したモンケは、後継者をはっきりときめておらず、また生前のあまりにも峻烈な政治のため、内部の結束を失いつつあった[[モンゴル帝国]]は、帝国始まって以来最大の内戦に直面することとなる。