「モンゴル・南宋戦争」の版間の差分

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[[1268年]]、アジュを主将、史天沢を副将格とするモンゴル軍は南下を開始し、まず樊城を囲んだ。[[襄陽・樊城攻防戦]]は4年に渡って行われ、[[呂文煥]]以下の南宋軍は非常に良く抗戦したものの周到に準備・計画を行ったモンゴル軍に敵わず、[[1273年]]に降伏した。大いにモンゴル軍を苦しめた呂文煥であったが、すでになるべく無傷で[[江南]]の地を取ろうと考えていたクビライはかえってこれを非常に優遇し味方に引き入れようと努めた。もともといくら言おうと十分な援軍を送ろうとしない賈似道政権に不満を持っていた呂文煥はクビライに忠誠を誓いモンゴル軍に加わった。襄陽・樊城の陥落と呂文煥の投降が南宋の人民に与えた衝撃は大きく、また呂文煥が長年の人脈から長江流域に広く調略を行ったため南宋は急速に基盤を緩めつつあった。この状況を見て取ったクビライは南宋への大侵攻を決定、[[バヤン]]を総大将とする空前の大軍が南下を始めた。
 
バヤンは自ら20万の大軍を率い襄陽から漢水に沿って南下し、漢口([[武漢]])で南宋の艦隊に阻まれたものの呂文煥の案内で密かに軍の一部を徒渉させ艦隊を挟撃する構えをとったことでおびえた南宋艦隊は撤退し、[[1274年]]には鄂州がモンゴル軍の手に落ちた。もともとバヤンはクビライにむやみに敵を殺害することを避け、できるだけ無傷で降伏させていくよう命令されていたため鄂州でも一切の略奪を禁ずるなど丁重に扱っていたが、これが南宋側にも伝わると続々と投稿者がでた。水陸並んで長江を下るモンゴル軍は投降した兵によってふくれあがりようやく出陣してきた賈似道の軍も蕪湖の戦いで粉砕し[[杭州市|臨安]]に迫った。
 
[[1276年]]、臨安は無血開城して南宋は事実上滅亡し、張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と官僚により抗戦が続けられたが広州湾において[[崖山の戦い]]で元軍に撃滅され、南宋は完全に滅びた。