「アレクサンドル・ポポフ (競泳選手)」の版間の差分

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[[2000年]]の[[シドニーオリンピック]]では、ポポフは100m自由形で[[ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド]]にタッチの差で敗れ2位となった。また、50m自由形は6位で終え、50mまたは100mにおけるオリンピック史上初の3連覇の夢は破れた。ポポフ潔くで負けを認めた。「世界が終わりになったわけではない」「すべてに勝つことはできない、私は(勝利を<!--訳者による意訳-->)分けなければならない。」
 
[[2003年]]の世界水泳選手権は、[[バルセロナ]]で開催された。ポポフにとってバルセロナはすべてが始まった原点(バルセロナオリンピック)として、特別であった。彼は、50mと100mの自由形を再び制した。そして、[[2004年]]の[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]に出場することを表明した。しかし彼は、アテネのプール競泳種目出場選手の中は、すでに最年長の選手になっておりいたポポフの衰えは隠せず金メダル100m自由形で彼から遠く逃げていっ準決勝敗退、50m自由形では予選敗退の惨敗を喫する。[[2005年]]2月に引退を表明した。
 
[[1999年]]12月に[[国際オリンピック委員会|国際オリンピック委員会(IOC)]]の委員に選出された。また、IOCの内部委員会の一つである 「Sport for All Commission(みんなのスポーツ委員会)」のアスリート代表や、「Athlete Commission(スポーツ選手委員会)」の7人のうちの一人を務めた。「Athlete Commission 」は1996年と2000年のオリンピックで選出され、その後名誉幹事となった。