「チューヤン」の版間の差分

[[1998年]]、[[バラエティ番組]]「[[進ぬ!電波少年]]」の企画で、[[伊藤高史]]と共に[[アフリカ大陸|アフリカ]]・[[ヨーロッパ大陸]]縦断の[[ヒッチハイク]]に挑戦するパートナーの[[オーディション]]に参加。「自分の人生を変えたいんです」との言葉が決め手となり、100人以上の志願者の中から選ばれた。2人のチーム名は[[広東語]]で『友達』を意味する'''朋友'''(パンヤオ)と名づけられた。母語である[[広東語]]と第2言語である[[英語]](第2言語だが、香港人であるため流暢である)を話し、ヒッチハイクでは彼の英語が多くの場面で役に立っていた。[[アフリカ]]・[[喜望峰]]から[[ノルウェー]]・[[スレットネス灯台]]まで、22,170km、290日に及ぶ大陸縦断ヒッチハイクに成功した。この企画でブレイクし、知名度も急速に上がっていった。
 
当初は[[日本語]]は全く理解しなかったが、旅の期間中に伊藤高史から少しずつ教わり、旅の終盤ではカタコトの日本語を話せるようになっていた。その広東語訛りの口調が魅力となり、日本での芸能活動の中で定着した。日本の漫画を日本語教材代わりにしており、特に[[あだち充]]のファンだった。
 
[[1999年]][[1月]]、「[[進ぬ!電波少年]]」の[[司会]]者となり、番組の企画へも頻繁に参加させられた。また、『[[雷波少年]]』の企画「チューヤン・ジャパンツアー」も同時に行っていたため、全国を旅しながら司会の仕事のために東京までスタッフの手助けなしで戻る、という日々が続いた。
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