「奥野定良」の版間の差分

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赤穂城明け渡しに際して、家老[[大野九郎兵衛]]が逐電してしまったために、代わりに[[大石内蔵助]]を補佐して明け渡しを行った。
 
奥野将監は大石内蔵助の義盟に加わり、御家再興運動では大石の右腕となり助けた。元禄15年([[1702年]])7月、浅野内匠頭の弟[[浅野長広|浅野大学]]の[[広島市|広島]][[広島藩|浅野宗家]]への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的になると[[京都]]円山の会議で大石は吉良上野介への仇討ちを決定するが、その直後に奥野は脱盟してしまった。奥野は一党の中では大石に次いで禄が高く、討ち入り後に細川家にお預けとなった大石は奥野の脱盟を大変に残念がっている。
 
[[司馬遼太郎]]の小説『[[新選組血風録]]』では[[新選組]]隊士[[山崎烝]]を奥野将監の子孫として描いているが、これはフィクションである。
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