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[[画像:KisoDani.jpg|Right|thumb|320px|木曾谷(2006年11月撮影)]]
'''木曾谷'''(きそだに)とは、
== 地域範囲 ==
史料上の記事は、まず『[[続日本紀]]』に見え、[[702年]]([[大宝 (日本)|大宝]]2年)に岐蘇山道(きそのやまみち)が、[[713年]]([[和銅]]6年)に吉蘇路(きそのみち)が開通したとある。木曾の表記は[[平安時代]]末期ごろに現れ、[[源義仲]](木曾義仲)の活躍などによって広く定着したとされる。
はじめ[[美濃国]][[恵那郡]]に属していたが、[[信濃国]]と所属がしばしば争われた。[[9世紀]]後半の[[貞観 (日本)|貞観]]年間には
古代末期から中世初期にかけて、大吉祖荘([[宗像氏|宗像少輔領]])と小木曽荘([[八条院領]])の2つの[[荘園]]が
[[江戸時代]]初頭になると、全国各地の建設ラッシュに応えるため木材生産地として開発され、本来の信州である奈川、奈良井、贄川の3ヶ村とともに[[尾張藩]]に組み入れられた。その後、[[ヒノキ]]を中心とする
明治以降も林業が産業の中心を占め続け、交通の相対的な不便さもあって
== 林業 ==
大部分を急峻な山地が占めるため耕作地は少なく、木曽川沿いの狭小な平地に見られる程度である。年間降水量3000mmという豊富な雨量と、[[濃飛流紋岩類]]の風化による保水力の高い土壌によって、[[針葉樹]]が生育しやすい条件がそろっており、近世初期以降、[[ヒノキ]]を中心とする[[林業]]がおこり、当地の主要産業として栄えた。
近世初頭には、江戸幕府の政策に従って
明治以降、尾張藩有林は国有の官林へ編入され(木曾官林)、[[1889年]]([[明治]]22)年には御料林として皇室財産となった。第二次大戦後の[[1947年]]([[昭和]]22)に[[国有林]]に指定され、[[林野庁]]の所管となった。その後は、1959年(昭和34)の[[伊勢湾台風]]による被害木の大量伐採などがあったものの、木材の収穫量は長期的な減少傾向にある。
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