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'''王党派'''(おうとうは)は、[[君主制]]の維持を主張する政治党派のこと。[[市民革命]]においては[[共和派]]と対立し、[[絶対王政]]と貴族制の維持を主張する。[[立憲君主制]]を目指す[[立憲君主派]]も広義の王党派に含まれることもある。[[国王]]が[[王権]]を強化する必須の勢力であり、また[[王政]]を維持し、正当化する理由にもなっている。ただし、必ずしも[[貴族]]のみ必ずしも王党派とうわけではなく、[[ブルジョワジー]]などの[[市民]]や、[[農民]]の支持による王党派もある。現在でも[[フランス]]、[[イタリア]]、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]などで[[王政復古|王政(帝政)復古]]を目指す王党派が活動している。
 
== 各国の王党派 ==
=== フランスの王党派 ===
==== フランス革命期における王党派 ====
[[フランス革命]]期においては、[[ルイ18世 (フランス王)|プロヴァンス伯(ルイ18世)]]と[[シャルル10世 (フランス王)|アルトワ伯(シャルル10世)]]ら王族、あるいは[[絶対王政]]期の[[アンシャン・レジーム]]の[[貴族]]、[[聖職者]]([[僧侶]])を言う。彼らは、[[フランス王国]]などの[[王政]]国家を維持する勢力であった。
 
近い考えを持つ集団として、王政は認めるものの、これを議会のコントロール下に置こうとする[[立憲君主制|立憲君主主義者]](いわゆる[[フイヤン派]])が存在し、区別される。しかし[[ジロンド派]]や[[ジャコバン派]]などの共和派が絶対的な指導権を握った革命期においては、両者は共に攻撃の対象とされ、ほとんど区別されずに王党派という枠にくくられた。特に革命期の[[パリ]]では、王党派であることが発覚しただけで[[テロ]]の対象になることも珍しくなかった。
 
一方、革命期でも地方では革命政権の中心地パリほど国王憎しの感情は高まりを見せず、農民の間で急進的な国王不要論が急増することはなかった。[[ヴァンデの反乱]]のように、[[徴兵制]]反対や[[信仰の自由]]を求めた農民反乱に地方貴族が合流して王党派の反乱としての性格を見せるケースもあり、フランス全土の規模で見れば王党派は致命的に勢力を失ったわけではなかったともいえる。
 
==== 革命後の王党派 ====
フランス革命以後、主に[[ナポレオン・ボナパルト]]失脚後に生まれた[[ブルボン家]]支持者を'''レジティミスト'''と言う。また[[フランス7月革命]]で成立した[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]統治の[[オルレアン朝]](ブルボン家の傍流)支持者を'''[[オルレアニスト]]'''と言う。いずれも広義には王党派の範疇に入ると言えるが、ルイ=ナポレオン(後の[[フランス第二帝政|フランス皇帝]][[ナポレオン3世]])支持者の[[ボナパルティズム|ボナパルティスト]]と激しく対立した。
 
=== スウェーデンの王党派 ===
==== ホルシュタイン=ゴットルプ王朝による王党派 ====
[[1751年]]に[[スウェーデン]]では、[[1751年]]に[[ヘッセン王朝|ヘッセン家]]に代わりの[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フレドリク1世]]が死去した後、[[ホルシュタイン=ゴットルプ王朝|ホルシュタイン=ゴットルプ家]]が王位に推戴されたもの、[[王権]]を著しく制約された[[立憲君主制]]([[自由の時代]])であったため、国王[[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク]]が推戴されたもの、[[王]]を著しく制約された。王妃[[ロヴィーサ・ウルリカ]]王党派と結び[[クーデター]]を謀るもののったが、陰謀は露見し、関係者は処罰された。
 
[[1772年]]、[[スウェーデン]]王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]は王党派の支持の、[[近衛兵]]を用いてクーデターを起こした。グスタフ3世は王権の強化に成功し、[[絶対王政]]への道を開いた。グスタフ3世支持派は、主にブルジョワや農民からり、貴族は少数派であった。彼は[[啓蒙主義]]的思想を持ち、貴族からの徴税も辞さなかったため、一部の貴族から恨みを買うこととなった。
 
[[1809年]]、[[グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ4世アドルフ]]がクーデターによって廃位された後、ホルシュタイン=ゴットルプ王家の断絶が決定的になると、一部の王党派はグスタフ4世の元[[王太子]][[グスタフ (ヴァーサ公)|グスタフ]]を王位に就けようと画策したが結局失敗し、[[ベルナドッテ王朝|ベルナドッテ家]]がスウェーデンの新王朝として君臨今日まで存続することとなった。
 
==== フランス革命における王党派 ====
1789年にフランスで革命が起きると、グスタフ3世はこれに反発し、フランス王室に深い関わりを持つ貴族[[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン]]を通じて[[反革命]]運動を起こしている。1790年に[[ロシア帝国]]との戦争を終結させると、グスタフ3世はさらにこれを推し進め、フランス亡命貴族([[エミグレ]])と連携し、[[反革命十字軍]]の設立を目指した。一方でフェルセンは、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]と通じて[[フランスブルボン朝|ブルボン王家]]救出活動も行った。ただフェルセン個人の目的王妃[[マリー・アントワネット|フランス王妃]]救出が目的であった。しかし、スウェーデンにおける反革命支持派は少数であり、[[1792年]]にグスタフ3世が[[暗殺]]されると革命からは手を引くこととなった。
 
=== フィンランドにおける王党派 ===