「横山やすし」の版間の差分

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その点に関して木村政雄は雑誌のインタビューで「そら、天才やったと思いますよ。ある意味何らかで天才やったと言える。」と述べていた。
 
===短気な性格===
短気な性格であり、自分が納得行かないことがあれば番組中に激怒したり、途中で帰ったり、若手タレントに説教したり、酒を飲んでいれば殴ったりという行動がしばしば見受けられた。
 
== ギャグ ==
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== 逸話 ==
===短気な性格とスパルタ===
短気な性格であり、自分が納得行かないことがあれば番組中に激怒したり、途中で帰ったり、若手タレントに説教したり、酒を飲んでいれば殴ったりという行動がしばしば見受けられた。また、ほとんど弟子を取らないきよしとは対照的に、やすしは生涯に20数人の弟子を取っていたが、弟子に対して理不尽な暴君であったことや、スパルタ育成であったことは有名で、一人前の芸人として生き残った弟子は "たかし" と "ひろし" と "ひに対する扱いの例を挙げるし" だけ「師匠の前食事をす時には早食い」「車を運転する時はレーサー並みのスピードを要求」などほんの一瞬でもひとミスや失態をた場合鉄拳蹴りが飛び、同じミスを犯せば即刻破門しの最後の弟子であ。きよしの弟子の[[西川などスパルタ育成ぶお]]と競艇選手の[[佐野隆仁]]だった。これは、将来何事に付き一着を勝ち取って一として修行し前の芸人になっもらいたい思いがあったためだというこうし、放送作家育成方法に批判[[萩原芳樹]]やすしの弟子あった
 
やすしの弟子として、きよしの弟子の[[西川のりお]]と競艇選手の[[佐野隆仁]]も付き人として修行していた。放送作家の[[萩原芳樹]]もやすしの弟子である。一人前の芸人として生き残った弟子は "たかし" と "ひろし" と "ひとし" だけである。中でもひとしは、やすしの最後の弟子であり、弟子修行に最後まで残った唯一の人物である(たかし・ひろしは弟子入りした当初は[[吉本興業]]に所属していたが、師匠のあまりものスパルタぶりに耐えかねて、師匠が少しでも近寄れない場所で活動するようにとの周囲の計らいもあって、[[正司敏江・玲児|正司玲児]]が弟分として引き取る形で松竹芸能へと円満移籍した。たかし・ひろしは「弟子についた間に一万発くらいはドツかれました」と近年語っている。激怒したやすしに[[阪神高速道路]]で車から降ろされて置き去りにされたり、てっちり屋の二階の窓から屋外に蹴落とされたこともあった。)
弟子に対する扱いの例を挙げると「師匠の前で食事をする時には早食い」「車を運転する時はレーサー並みのスピードを要求」など。ほんの一瞬でもミスや失態をした場合は鉄拳や蹴りが飛び、同じミスを犯せば即刻破門するなどのスパルタ育成ぶりだった。これは、将来何事にも一着を勝ち取って一人前の芸人になってもらいたい思いがあったためだという。こうした育成方法に批判の声もあった。
 
たかし・ひろしは弟子入りした当初は[[吉本興業]]に所属していたが、師匠のあまりものスパルタぶりに耐えかねて、師匠が少しでも近寄れない場所で活動するようにとの周囲の計らいもあって、[[正司敏江・玲児|正司玲児]]が弟分として引き取る形で松竹芸能へと円満移籍した。たかし・ひろしは「弟子についた間に一万発くらいはドツかれました」と近年語っている。激怒したやすしに[[阪神高速道路]]で車から降ろされて置き去りにされたり、てっちり屋の二階の窓から屋外に蹴落とされたこともあった。
 
1994年初夏頃、ひろし宅に師匠のやすしから電話で「もしもし横山やすしだが、ひろし頑張りや。うん、よう見てるで。一着取りや。以上!」と16秒の優しい留守電メッセージが入っていた。やすしの死後の追悼特番でひろしは「『一着取りや』のとこがね。もう師匠は自分は一着を取れんと悟っていたんでしょうね。それを僕らに託したんでしょう。師匠ってのは、僕らに取って親みたいですから」と語っていた。現在もそのテープは大切に保管されている。しかし、それとは裏腹にかつては「どこにおるんじゃ!ボケ」とかの過激な肉声メッセージがあった事や、ひろしがやすしと電話で会話していて「はいそうですね」と数回言うと「ほんでな、コラお前ちゃんと聞いてるんか?!」と怒鳴られたという。壮絶なやすしの電話魔振りにひろしは「こんな事を師匠に言うたら申し訳ないですが師匠の電話はうっとうしかったです」と語った([[古川嘉一郎]]「横山やすし 夢のなごり」より)。それほど、師弟愛があったことがうかがえる。
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弟子が家の2階に住み込んでいたときドタドタと階段を降りて「師匠、お時間です」と言ったら「あほんだら、階段くらい静かに降りぃ!」と怒り、反省した弟子が次の日の朝、そーっと降りて戸を開けて「お時間です」と言うとカミさんとことの真っ最中で「アホ、音出さんかい!」と言ったという話をよくビートたけしがしていた。
 
スパルタ教育は、その後も[[オール巨人]]、[[中田カウス]]、[[チャーリー浜]]などが、やすしの影響を受けている。ただし、カウスとチャーリーのように「他人には厳しいが自分には甘い」者や、同様に他人から「厳しすぎる」と批判されている事もある。
 
ある日、やすしは楽屋をいつもの調子で訪れ、当時若手だったオール阪神・巨人たちをアゴで使っていた。しかし、あまりの横暴さに巨人はやすしに激怒し、先輩であるにもかかわらず、猛烈な剣幕で食ってかかった。後日、やすしはその恐怖からか、巨人のことを「巨人君」と呼ぶようになった。
 
=== 大平サブローのモノマネ===
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===師匠に暴言===
師匠のノックら横山会(エンタツ以来の横山姓の一門会)が[[中田ダイマル・ラケット]]のテレビ出演を見ていた時、ノックらは「さすがにダイラケ先生も衰えたなあ」と語っていたところ、やすしが激怒し、「誰や!今ダイラケ先生が衰えたなあと言うたんは?」と怒鳴りだし、なだめようとしたノックに対して「お前か!このハゲ!ダイラケ先生の悪口言う奴は許さんぞ!ボケ!」と暴言を吐き、巷間でも語り継がれた。やすしがダイマルを尊敬していたからであるが、どうやら呑んでいたものと思われる。幸い破門は免れた。
 
===やすしを恐れさせた若手芸人 オール巨人===
一方、オール巨人はやすしに激怒したことがある日、やすしは楽屋をいつもの調子で訪れ、当時若手だったオール阪神・巨人たちをアゴで使っていた。しかし、あまりの横暴さに巨人はやすしに激怒し、先輩であるにもかかわらず、猛烈な剣幕で食ってかかった。後日、やすしはその恐怖からか、巨人のことを「巨人君」と呼ぶようになり、以来気に入られるようになった。
 
===マラソンと陸上競技===
[[マラソン]]と[[陸上競技]]にも造詣を持ち、意外と健脚の持ち主でもあった。当時住んでいた堺市の自宅からうめだ花月までの道のりを走っていたことは有名。マラソンに対する情熱は[[上岡龍太郎]]、[[間寛平]]らに多大な影響を与えた。また、きよしや周囲の芸人によると、野球など団体競技などはあまり好まなかったという
 
===意外な一面===
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===その他===
『[[モーレツ!!しごき教室]]』で若手時代の[[前田日明]]からドロップキックを受けた。また、落語家の[[林家木久扇]]とは親友の間柄でもあり、木久扇が会長を務める「全国ラーメン党」の副会長兼大阪支部長に任命されたことがあった。
毎日、床屋へ通っていたことは有名。また、きよしや周囲の芸人によると、野球など団体競技などはあまり好まなかったという
 
==横山やすしを演じた俳優==
横山やすしの生涯は、何度か[[テレビドラマ]]化されている。