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『アイハヌム2003』「カザフスタン中世史」より要約
 
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[[ジョチ]]の子[[オルダ]]もしくは[[トカ・テムル]]の子孫とされている。
[[1368年]]、[[シグナク]]でハン位につくと、バトゥ家とオルダ家が断絶して以来混乱の続くジョチ・ウルスを統合し、ウルスの左右両翼の再編を目指し、[[1972年]] [[サライ]]を占領する。しかし[[ヴォルガ河]]流域を支配していた[[ママイ (キヤト部) |ママイ]]の勢力とは争わず、[[シルダリヤ]]方面に帰還する。
[[1376年]]、[[ティムール]]の支援を受けた[[トクタミシュ]]の数次に渡る侵攻を受ける。一度目は子のクトゥルク・ブカに迎え撃たせ、トクタミシュの撃退には成功したもののクトゥルク・ブカが戦死を遂げる。二度目の侵攻では長子のトクタキヤが敗北するも、トクタミシュを負傷させ撤退に追い込んだ。三度目はティムールが自ら兵を率いて攻めて来たが、オロスは部隊を[[オトラル]]に派遣し、オロス自身はシグナク(サウランとの説も)を固めて持久戦に持ち込んだ。冬の到来によって両者は休戦し、ティムールは[[シャフリサブス|ケシュ]]に帰還する。
翌1977年春、ティムールの再度の侵攻を前にして病死する。この侵攻を迎え撃ち、ウストユルト台地で戦ったが、その際の負傷がもとで戦死したとする説もある。