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[[Image:Roger II Sicily.jpg|thumb|250px|ルッジェーロ2世]]
 
'''ルッジェーロ2世'''('''Ruggero II''', [[1095年]][[12月22日]] - [[1154年]][[2月26日]])は、シチリア伯(在位:[[1105年]] - [[1130年]])、のち[[シチリア王国|シチリア王]](在位:[[1130年]] - 1154年)。シチリア伯[[ルッジェーロ1世]]の息子で、兄[[オートヴィルのシモーネ・ダルタヴィッラ|シモーネ]]を継いでシチリア伯となったが、[[1130年]]に初代のシチリア王となった。死後、王位は息子の[[グリエルモ1世]]が継いだ。
 
[[1127年]]に[[従兄弟]]一族の[[プーリア]]公グリエルモ2世{{enlink|William II, Duke of Apulia|a=on}}亡くな没すると、ルッジェーロ2世はその相続を主張し、[[ナポリ王国|ナポリ]]、シチリアを支配した。[[1130年]][[9月]]に[[対立教皇]][[アナクレトゥス2世]]から、シチリア王位を授けられた。しかし、[[ローマ教皇]][[インノケンティウス2世]]を支持する[[神聖ローマ皇帝]][[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール3世]]が[[イングランド]]、[[フランス王国|フランス]]、[[東ローマ帝国|東ローマ]]の支持を取り付け侵攻してきたため、その後10年間にわたりこれと戦うことになった。[[1137年]]までは形勢不利で、[[プーリア]]等各地を失ったが、ロタールが[[ドイツ]]に戻った後に巻き返し、[[1139年]]までには大部分を奪還した。アナクレトゥス2世の死後、インノケンティウス2世と和解し、[[1144年]]にシチリア、ナポリ王に認められた。[[シチリア王国]]は、[[イタリア人]]、[[ギリシア人]]、[[アラブ人]]、[[ノルマン人]]、[[ユダヤ人]]等が民族的、宗教的寛容により融和した[[多民族国家]]であり、[[地中海]]の支配権を握って、[[ヨーロッパ]]の強国の1つとなった。
[[1147年]]の[[第2回十字軍]]の際には[[ギリシア]]の支配を狙ったが果たせず、[[1154年]]に死亡した。
 
[[オートヴィル朝]]の諸王は進んで東方の文化を取り入れたが、初代シチリア王たるルッジェーロ2世も例外ではない。彼は[[イドリースィー|アル・イドリーシー]]に命じて[[世界地図]]を作らせるなどした。また、アル・イドリーシーはルッジェーロ2世の晩年期にこの地図の解説として「[[ルッジェーロの書]]」と呼ばれる地理学書を執筆したが、[[アラビア語]]で書かれていたため、もっぱらイスラム教圏で広まった。
 
{{先代次代|[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア伯]]|1105 - 1130|[[オートヴィルのシモーネ・ダルタヴィッラ|シモーネ]]|―}}
{{先代次代|[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]]|1130 - 1154|―|[[グリエルモ1世]]}}
 
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