「稲垣兼太郎」の版間の差分

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(明治、大正の囲碁棋士)
 
江戸に生まれ、幼児から本因坊秀和門下の佐瀬秀石に入門し、勝田栄輔にも指導を受ける。1869年([[明治]]2年)16歳で秀和より初段を許される。しかし囲碁で身を立てる道は選ばず、学業の後[[陸軍省]]に入り、1877年[[西南の役]]の功で[[賞勲局]]総裁[[三条実美]]より賞状を受け、翌年[[大蔵省]]に転じる。
 
方円社設立に伴い入社し、1880年より定式会に参加し三段まで進む。その後官吏を辞し、20年ほど事業に励むが成功しなかった。その間は客員として散発的に定式会に参加し、1901年に四段に進むとともに囲碁専業を決意、間もなく五段に進む。[[本因坊秀哉]]が[[本因坊|本因坊家]]を継ぐと、旧交によって坊門となり、[[棋戦 (囲碁)|新聞棋戦]]にも参加。1909年に囲碁教室を閉鎖して全国漫遊し、[[東北地方|東北]]、[[北海道]]、続いて[[名古屋市|名古屋]]、[[岐阜]]、[[大阪]]、[[神戸市|神戸]]を回り、各地愛好者と手合を行った。1910年に三輪喜兵衛ら愛好者の求めで名古屋に道場を定めて在住し、中京囲碁会を発会。翌1911年10月に雑誌『中京碁界』発刊。1912年に本因坊秀哉より六段を受ける。翌年3月にこの昇段披露会を行い、[[京都]][[寂光寺]]28世日主より日号「日省」を授与される。また当日、[[本因坊算砂]]が[[近衛信尹|近衛関白]]より授与された[[桑]][[碁盤]]、南京石[[碁石]]の使用を許され、初段水谷鎌三郎と三子で席上対局を行った。
 
1918年に名古屋で創刊された雑誌『囲碁之明星』では講師を務める<ref>林裕「囲碁ジャーナリズム小史」(榊山潤編『碁苦楽』南北社 1962年)</ref>。1921年には大阪での[[恵下田栄芳|16世井上因碩]]の披露会に出席。1922年[[古稀]]を迎え、有志により[[興正寺 (名古屋市)|八事山興正寺]]境内に寿碑建立。隣接の[[八勝館]]での記念棋会では、東西の棋士他400名が出席する盛会となった。1923年の碁界合同の協議会に参加し、1924年の[[日本棋院]]設立に参加。1929年七段昇段。1931年に[[読売新聞]]企画により[[呉清源]]と対局(呉先番13目勝)。1940年死去。廉潔、洒落の性格、[[書道|書]]に堪能であったという。門下に、河合菊次、渡邊英夫。
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