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'''張 邈'''(ちょう ばく、? - [[195年]])は、
== 生涯 ==
若い頃から男伊達で気前がよく、[[曹操]]や[[袁紹]]とも親友のように仲が良かった。袁紹とは、「奔走の友」と呼ばれる契りを結び、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲が良かったと言われている。頭脳の明晰さと徳行で官界に知られるようになり、後漢王朝に仕えて騎都尉を務めた後、陳留郡の太守となった。▼
「董卓伝」の引く『漢末名士録』や『後漢書』の「党錮伝」によると、漢の[[八俊]](八厨)の一人であったとある。
▲若い頃から男伊達で気前がよく、[[曹操]]や[[袁紹]]とも親友のように仲が良かった
袁紹を盟主として
これ以前、袁紹は、董卓を討つべく集まった諸侯に対して奢ったふるまいを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。長安で勃発した政変の結果、、董卓の部下である[[李カク|李{{lang|zh|傕}}]]達に敗れて落ち延びてきた[[呂布]]と張邈は親交を結ぶのだが、それが原因で袁紹の不興を買ってしまう。以前に袁紹と呂布とは諍いを起こしており、呂布が張邈の下に逗留していたのは、袁紹によって厄介払いされたものが転がり込んでいた為である。
いずれの時も、曹操が袁紹にとりなしたため、危うく難を逃れている。
しかし、張邈は、こうして曹操に命を助けておいてもらいながらも、『いつか、曹操が袁紹との友情を優先して、自分を殺すのではないか』と、曹操に疑念を抱くようになったとも記されている。
[[193年]]、曹操は[[徐州]]の[[陶謙]]を攻めるために本拠を留守にした。張邈は、食客として遇していた
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目上の袁紹との間に立ち、自らの立場を悪くしてまでもとりなしていたように、曹操にとっての張邈は、利害関係を超えた存在である。曹操は、その張邈に本拠地を任せていた事から、変事が起こるなどとは全く警戒していなかった。
張邈の裏切りは、こうした曹操の信頼に対する痛烈なしっぺ返しである。また、曹操自身、張邈と袁紹の間に立たされた事で、袁紹との関係を悪化させていた。これに、呂布の抱えていた旗本、曹操の閣僚の一人でもあった陳宮の裏切り、など、張邈軍の反乱には、有利になる条件が決断した時点で揃っていた。
--> 張邈 翌々年の[[195年]]には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。呂布や陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた[[劉備]]を頼って落ち延びた。張邈自身は、陳留に居た弟の張超らと分断されていた。張邈は、陳留の一族を救出するため[[袁術]]に援軍を求めに向かう途上、部下の裏切りにあい、殺された。前後して陳留は落ち、張超など張邈の遺族は、曹操の追及を逃れて[[雍丘]]に移った。このころには曹操は長安の天子から正式に兗州の牧に任命され(武帝紀)、張邈達は賊の立場に追い込まれていた。
翌[[196年]]、雍丘は曹操軍の攻撃によって陥落。張超は焼身自殺し、張邈の三族(父母、兄弟、実子と養子)も、曹操によって皆殺しの刑に処せられた。
『[[三国志演義]]』でも、若干の脚色を除いては、ほぼ同様の描写がなされている。
<!--連合軍の第六鎮として←演義の設定-->
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
*[[三国志演義の人物の一覧]]
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