「ヴィルヘルム・カイテル」の版間の差分
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1938年1月、カイテルの息子[[カール・ハインツ・カイテル]]とブロンベルクの娘ドロテー・ブロンベルクが結婚することとなったが、2月にはヒトラーはスキャンダルを利用してブロンベルク国防相と陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]を解任、後継の国防大臣を任命せず、直接国防三軍を指揮すると宣言し、このために[[国防軍最高司令部]]を設け、国防軍最高司令部総長にカイテルを任じた。この職位は国務大臣に同位ではあるが、軍指揮権は持たない事務職である。11月には[[上級大将]]に昇進している。
カイテルは、
当時カイテルの副官だった将校の証言によると、ヒトラーを交えた作戦会議では、常に「総統閣下の仰る通り」「総統閣下、あなたは史上最高の軍事指導者です」「総統が過ちを犯されるはずはない」などと、口癖のように話していたという。ちなみに、国防軍最高司令部作戦部長[[アルフレート・ヨードル]]上級大将は、カイテルの軍事センスの無さを見抜き、作戦上の詳細は一切伝えず、大枠のみ伝えていたという。ただし実務能力は高かったため、統制の取れにくかった国防軍を短期間でひとつにまとめるという功績を残している。
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== 人物 ==
*[[第二次世界大戦]]においてただの一度も実戦指揮の経験が無く、叙された唯一の[[陸軍]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]である。カイテル自身もこれを[[コンプレックス]]に感じるところがあったらしく、ニュルンベルク裁判の弁護士[[オットー・ネルテ]]に話したところによると、一個師団でもいいから前線で指揮をとらせてほしいと[[ヘルマン・ゲーリング]]に仲介してもらってヒトラーに嘆願したことがあるという<ref>
*カイテルはその内面の意志の弱さに反して立派なひげをはやしていかにも軍人らしい屈強な風貌であった。これをヒトラーがうまく利用することもあった。1938年にヒトラーがオーストリア首相[[クルト・フォン・シュシュニク]]に恫喝を行った際にシュシュニクがためらっているのを見るとヒトラーは次の間に控えていたカイテルを大声で呼びつけた。ヒトラーは「軍の準備は整っておるか」とシュシュニク首相を前にしてわざわざカイテルに聞き、カイテルは「できております。我が総統。」と答えた。シュシュニク首相はこの問答に震えあがり、辞意を固めたという<ref>
*カイテルの父は1934年に死去した。この際にカイテルはヘルムシュローデへ帰り、父の地主の仕事を継ぐため、軍に退官届をだしている。しかし妻リーザは夫に軍でのさらなる出世を求めており、リーザから軍にとどまるよう説得された。またカイテルの事務能力を評価していた[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]陸軍総司令官からも留任を求められ、結局カイテルは辞表を撤回した。カイテルは自身の回顧録に「心の底からヘルムシュローデへ帰りたかった」と書いている<ref>
== 叙勲 ==
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== 参考文献 ==
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*Werner Maser (Hrsg.): Wilhelm Keitel. ''Mein Leben – Pflichterfüllung bis zum Untergang. Hitlers Generalfeldmarschall und Chef des Oberkommandos der Wehrmacht in Selbstzeugnissen. postum zusammengestellt'', edition q im Quintessenz Verlag, Berlin 1998, ISBN 3861243539 (死後に編纂されたカイテルの自伝)
*Wilhelm Keitel, Walter Görlitz (Hrsg.): ''Generalfeldmarschall Keitel – Verbrecher oder Offizier? Erinnerungen, Briefe, Dokumente des Chefs OKW''. 558 Seiten. Verlag Siegfried Bublies, Schnellbach 2000, (Lizenzausgabe des Verlags Musterschmidt, Göttingen 1961), ISBN 3-926584-47-5 (カイテル関連書簡の集成)
== 脚注 ==
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===注釈===
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===出典===
<references />
==外部リンク==
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