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{{武士/兄弟|[[色部顕長]]}}
{{武士/妻|[[新発田重家]]の妹}}
{{武士/子|'''[[色部光長|光長]]'''、女子}}
{{武士/終了}}
 
'''色部 長実'''(いろべ ながざね)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[越後国|越後]][[上杉氏]]の家臣。越後[[岩船郡]]小泉[[平林城]]主である。後に'''長真'''と改名する。正妻は[[新発田重家]]の妹。
 
==略歴==
天文22年(1553年)、越後[[長尾氏]](上杉氏)の重臣・色部勝長の子として生まれる。兄に嗣子である色部顕長がいたため、父の死後は兄が[[家督]]を継いだが、その顕長が病弱だったため、[[天正]]4年([[1576年]])に兄が[[隠居]]し、代わって家督を譲られて色部氏の当主となり、[[上杉謙信]]に仕えた。
 
天正6年([[1578年]])の謙信没後に起こった[[御館の乱]]では[[上杉景勝]]を支持して、[[上杉景虎]]方と戦った。その後は景勝の家臣として仕え、天正9年([[1581年]])に勃発した[[新発田重家の乱]]では、正室が重家の妹であった関係もあり重家対策を任された。天正16年([[1588年]])には景勝の上洛に随行し、同道した[[直江兼続]]・[[須田満親]]と共に[[豊臣秀吉]]から豊臣姓を授けられた。
 
天正18年([[1590年]])の仙北一揆においては、秀吉の命令を受けて平鹿郡大森城に在城し、[[大谷吉継]]と共にその鎮圧に功績を挙げた。天正20年([[1592年]])、秀吉の命令により[[朝鮮出兵]]が始まると、景勝に従って[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に赴いたが、その途上に発病し、帰国を許され京の伏見で療養を続けていたが、再起の見込みが無く、[[京都大石元綱]]と[[木戸元斎]]宛に自分の死後の色部家を直江兼続に頼むこと、兼続の次女を子・竜松丸(光長)の妻に迎えたいこと、自分の娘を兼続の養子にしてもらいたいことを希望する遺言状を残し、病死した。享年40。
 
長真の死後、兼続は光長の後ろ盾として色部氏を重用し、兼続死後も色部氏は幕末に至るまで、米沢藩上杉家の重臣として藩を支えていくことになる。
 
なお、物語としての[[忠臣蔵]]に江戸家老として登場する[[色部又四郎]](安長)や[[戊辰戦争]]時に家老米沢藩総督を勤め新潟で戦死した[[色部長門]](久長)は長の子孫である。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)
 
==人物・逸話==
*仙北一揆平定で出羽に赴いた際、道に迷ったところを雉に助けられたことがあった。それ以来色部家では雉は大事にされるようになり、菩提寺の千眼寺には奉納された雉の絵が今も残っている。
 
==参考文献==
*『色部氏史料集』井上鋭夫(新潟史学会、1968年)
*『越後国人領主 色部氏史料集』田島光男(神林村教育委員会、1979年)
*『本庄氏と色部氏』渡辺三省(村上郷土研究グループ、1987年)
 
なお、物語としての[[忠臣蔵]]に家老として登場する[[色部又四郎]](安長)や[[戊辰戦争]]時に家老を勤め新潟で戦死した[[色部長門]]は長実の子孫である。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)
 
[[Category:色部氏|なかさね]]