「色部久長」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
6行目:
 
== 最期 ==
新政府軍による海上などからの猛攻を受け、新潟の町は焼け野原になり、これ以上の衝突によって新潟の町の被害拡大を懸念し兵の撤退を決定した。米沢藩兵が敗走する中、敗戦の責任も取るべく、自らも生きながらえる選択をせず、僅か数名の兵を引き連れ新政府軍の本拠地であった関屋へ斬り込み、奮闘するも敵の攻撃に被弾し助からないと悟り、敵に首を取られまいと新潟市の[[中央区 (新潟市)|中央区]][[関屋 (新潟市)|関屋]]下川原新田(現在の[[新潟県立新潟高等学校]]周辺)にあった茄子畑にて[[割腹]]し、部下に[[介錯]]させた。[[享年]]44。久長の首は味噌漬けにして米沢へ送られたという
 
== 色部家断絶・赦免 ==
戦後に米沢藩は新政府軍によって藩主であった[[上杉斉憲]]は子である[[上杉茂憲|茂憲]]に[[家督]]を譲り[[隠居]]、4万石を召し上げられる処罰を受け、新政府軍より一連の戦犯について調査を命じられ、苦慮した結果、既に新潟の地で死亡している家老の色部を戦犯として届出をした。これに不審を抱く新政府首脳の中には[[三条実美]]のように「信賞必罰」の立場から米沢藩改易を唱える意見もあったものの、茂憲自らが[[東京]]に出頭して軍資金3万円を新政府に提供するなどの姿勢を取った結果、斉憲が[[山内豊範]]の義父であることも考慮されて、最終的にそれが認められ、奥羽諸藩では戦犯者が処刑される中、米沢藩では色部のお陰で処刑される者を出さずに済んだ。色部家は家名断絶されたが、明治16年に許されたという
 
== 追念碑建立 ==