「六郷政乗」の版間の差分

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[[1587年]]([[天正]]15年)、[[出羽国]][[横手城]]の[[小野寺義道]]の配下(仙北七人衆)に属し、[[秋田実季]]と戦った。[[1590年]]([[天正]]18年)、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣したため、出羽国内にあった所領・4500石を安堵された。[[1592年]]([[天正]]20年)、[[文禄の役]]では[[肥前国]][[名護屋城]]に在陣した。
 
[[1600年]]([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与し、西軍に与した[[小野寺氏]]を攻撃した。戦後の[[1602年]]([[慶長]]7年)、その功績により[[常陸国]]新治郡府中に1万石の所領を加増移封された。[[1614年]]([[慶長]]19年)からの[[大坂の陣]]にも参加し、戦功を挙げた。その功績により[[1623年]]([[元和 (日本)|元和]]9年)、[[最上氏]]が改易された後を受けて、その旧領である出羽国本荘に2万石の所領を加増移封され、本荘藩の藩祖となった。
 
1634年4月28日、本荘にて没した。[[享年]]68。墓所は[[秋田県]][[由利本荘市]]出戸町の[[永泉寺]]。[[家督]]は長男・政勝が継いだ。三男・政直は200俵を与えられて[[旗本]]に列し、四男・政秀の子孫は後に600石の旗本となっている。