「デモティキ」の版間の差分
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イタリアにおける「トスカナ方言」のように、[[ダンテ]]や[[ボッカチオ]]等といった国際的に卓越する方言文学をアテネ方言は有さなかった。この点で、イタリア言語史とは事情を全く異にする。
[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]([[1864年]]−[[1936年]])は、新憲法にカサレヴサ(純粋文語)を公用語にすることを憲法に記載した。ただし、[[初等教育]]については、トリアンダフィリデス([[1883年]]−[[1959年]])の主宰する「教育学会」が文法書を「デモティキ」で出版することを公的に認可し、初等教育についてはデモティキ化(アテネ方言化)が公的に行われた。やがて、[[イオアニス・メタクサス]]将軍による([[1871年]]-[[1941年]])独裁政権下では、カサレヴサではなくデモティキが正式なギリシアの国語と制定され、また、その後の政変によって再度公用語がカサレヴサのみの使用に戻され、その後、1964年[[ゲオルギオス・パパンドレウ]]([[1888年]]-[[1968年]])政府は、カサレヴサとデモティキをともに公用語(併用)としたものの、[[ゲオルギオス・パパドプロス]]([[1919年]]-[[1999年]])政府の軍制下ではカサレヴサのみが公用語として唯一の言語とされ「デモティキ」が行政公用語としては禁止された。
その後の1974年7月24日の民主制回復で、1976年[[コンスタンディノス・カラマンリス]](1907年-1998年)政府により、「デモティキ」のみをギリシアの正式な公用語と定め、その後、1981年に[[PASOK]](全ギリシア社会主義運動)党首の[[アンドレアス
== 日本語文献 ==
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