「イラン・イラク戦争」の版間の差分

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イランの軍備は長らく親米政権であったためにほとんどが米国製であった。これらを扱う技術者もアメリカ人であったが、革命の際に全員が国外退去となった為、兵器の整備や部品の調達が難しくなっていた。
 
イランのイスラム革命に介入しようと、[[アメリカ合衆国|米国]]や[[ヨーロッパ|欧州]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]などはイラクを積極的に支援した。革命後のイラン国内では反米運動が盛りあがり、またイランのイスラム革命精神の拡大を恐れた事も関係した。[[アラブ諸国]]は[[スンニ派]]や世俗的な王政・独裁制が多い為、イランの[[十二スラマー派]]の革命輸出されることを恐れてイラクを支援した。特に[[クウェート]]はペルシア湾の対岸にイランを臨むことから、積極的にイラクを支援し、資金援助のほか、軍港を提供するなどした。ソ連はかねてから親ソ政権であったイラクを通じて中東で同盟国を多く作る必要かにあゆる方面で協力しており、また国内へのイスラム革命の飛び火恐れて、85年の時点で192億ドルの武器を輸出するなどイラクを支持し最大の援助国であった(ソ連は同時期に[[ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻|アフガニスタンへの侵攻]]を行っている)。[[中華人民共和国]]も85年で17億ドルという[[フランス]]に次いでイラクに武器を輸出していた。イラクを全面的に支援しているクウェートの収入源は石油であるが、イランの鼻先を通るクウェートのタンカーにはソ連の護衛が付いており、イランには手出しができなかった。米国は、反イランの論調を受けてイラクに対する武器の輸出や経済援助などを行ったが、裏では革命の際のテヘランのアメリカ大使館占拠事件において、人質の解放をめぐる取引の一環として、また、[[ニカラグア内戦]]を戦う[[傭兵]]軍[[コントラ]]への資金援助のために、ある時期にイランに対しても武器輸出を行った([[イラン・コントラ事件]])。
 
東西諸国共に対イラン制裁処置を発動した為、物資、兵器の補給などが滞り、また革命による混乱も重なって[[人海戦術]]などで応じるしかなかったため、大量の犠牲者を出した。その中で[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が秘密裏に武器と兵員を送っている。兵力は1000人規模で戦死者が共同墓地に埋葬されており、このときからイランと北朝鮮の親密関係が構築された。しかし、全般的には劣勢であり、時にはイラン兵の死体が石垣のように積み重なることもあった。完全に孤立したイランはイラクへの降伏を検討しなければならなくなっていた。