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== 概要 ==
'''司法省明法寮'''を起源にもち、現在の[[東京大学]][[法学部]]の前身の一つである。時の司法卿[[江藤新平]]の主導により設立された。[[帝国大学]]成立以前に「[[学士]]」の称号を与えることが出来た高等教育機関は、[[東京大学]](旧制)のほか、司法省法学校のほか、[[工部省]][[工部大学校]]、[[開拓使]][[札幌農学校]]、[[農商務省 (日本)|農商務省]][[駒場農学校]]、東京大学法学部(旧制)のみであった。第四期生が司法省法学校としては最後の生徒で、[[文部省]]に移管された後、[[開成学校]]を前身とする東京大学法学部(旧制)と統合され、東京大学法学部仏法科となる。第三期生までは生徒全員が官費生であったが、第四期生から一部私費生となった。8年制(予科4年、本科4年)の「正則科」の他に、日本語により2年ないし3年間の法学教育を行った「速成科」もおかれ、第三期生まで教育を行った。
 
卒業生は、西洋近代法を修得した最初の世代であり、その多くは[[裁判官]]・[[検察官]]として明治期の日本の司法を支えた。第一期生は[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]による[[旧民法]]などの[[法典編纂]]に協力し、[[民法典論争]]においては断行派の中核となった。このほか、第一期生の過半数は[[明治大学]](明治法律学校)の創立に関与しており、その縁故で第二期生以降の中にも同学の講師となった者がいる。また、出身者の何人かは[[関西大学]](関西法律学校)の創立に関与している。
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*[[1872年]](明治5年)[[7月]]司法省明法寮に第一期生20名が入学。当初は定員100名を想定していたが、予算の関係から縮減された。途中で生徒の一部が中退し、新たに募集が行われたため、在籍者の総計は36名になる。法学教育を担当したのは、フランス人[[御雇い外国人]]のボアソナードと[[ジョルジュ・ブスケ]]である。[[フランス語]]の教育は、事前に[[アンリ・ド・リブロール]]が施した。
*[[1875年]](明治8年)[[5月]]に[[司法省]]所管の法学校となった。[[麹町区]]永楽町の司法省敷地内にあった旧[[信濃国]][[松本藩]](松平丹波守)邸の建物を使用。
*[[1876年]](明治9年)[[7月]]に第一期生20名が卒業。前年、フランスへ留学した7名中客死した2名を除く5名を加えた25名に対し、後に「法律学士」の称号が与えられた(東京大学法学部卒業生の称号は「法学士」であった)。第一期生卒業を受け、第二期生が入学。第二期生以降は修業年限が8年(予科4年、本科4年)となった。また、定員が20名から100名に増員された。予科はフランス語を中心とする普通教育、本科ではフランス語による法学教育が行われた。法学教育を担当したのは、フランス人御雇い外国人[[ジョルジュ・アッペール]]である。またこの年より、裁判官の速成教育のため修業年限2年の「出仕生徒」の制度を新設した(当初はフランス人教師の授業を第一期生のなかから選ばれた通訳が訳述する方式がとられ、[[1879年]]以降は卒業生・留学生出身者による日本語授業が行われ年限も3年に延長された)。
*[[1880年]](明治13年)9月に第三期生53名が入学。
*[[1884年]](明治17年)7月第二期生卒業。入学生104名中、卒業生は37名(法律学士33名、成業4名)である。