「モンゴル・南宋戦争」の版間の差分

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== モンゴル軍の大侵攻 ==
あしかけ四年に渡る[[モンゴル帝国帝位継承戦争|帝位継承戦争]]を制したクビライはモンゴル帝国第五代ハーンに即位し、まだ[[中央アジア]]方面に残る反乱分子との戦いと並行して南宋侵攻を企画した。南宋作戦の難しさを身を以て知るクビライはまず[[江南]]ではその長所を十分に生かし切れないモンゴル[[騎兵]]を主体とする作戦をやめ、ごく少数のモンゴル騎兵を中核とした[[キタイ]]、[[女真]]、[[漢人]]の混合部隊に、さらに旧[[華北]]の[[軍閥]]の歩兵主体の大兵団を貼り付けた三重構造の軍団を再編成した。
 
[[1268年]]、アジュを主将、史天沢を副将格とするモンゴル軍は南下を開始し、まず樊城を囲んだ。[[襄陽・樊城の戦い|襄陽・樊城攻防戦]]は4年に渡って行われ、[[呂文煥]]以下の南宋軍は非常に良く抗戦したものの周到に準備・計画を行ったモンゴル軍に敵わず、[[1273年]]に降伏した。大いにモンゴル軍を苦しめた呂文煥であったが、すでになるべく無傷で[[江南]]の地を取ろうと考えていたクビライはかえってこれを非常に優遇し味方に引き入れようと努めた。もともといくら言おうと十分な援軍を送ろうとしない賈似道政権に不満を持っていた呂文煥はクビライに忠誠を誓いモンゴル軍に加わった。襄陽・樊城の陥落と呂文煥の投降が南宋の人民に与えた衝撃は大きく、また呂文煥が長年の人脈から長江流域に広く調略を行ったため南宋は急速に基盤を緩めつつあった。この状況を見て取ったクビライは南宋への大侵攻を決定、[[バヤン]]を総大将とする空前の大軍が南下を始めた。