「色部光長」の版間の差分

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越後国[[岩船郡]]小泉庄[[平林城]]主([[新潟県]][[村上市]]平林)、上杉家の会津移封で出羽国[[金山城]]主([[山形県]][[南陽市]])。
上杉家減封後は出羽国窪田村([[山形県]][[米沢市]]窪田)を知行とする。
始めは義父の[[直江兼続]]から[[直江氏]]の通字である「綱」の字を貰い綱長と名乗る<ref>『色部文書』慶長7(1602年)12月16日付色部竜松丸宛直江兼続書状より</ref>が、
後に改名し、光長と名乗る。
 
==生涯==
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同年、長真の遺言に従って兼続の次女を正室に迎える。
慶長3年([[1598年]])の会津移封の際には、出羽金山城主に任じられ、
慶長5年([[1600年]])の[[慶長出羽合戦]]・19年([[1614年]])の[[大坂冬の陣]]に参加している
慶長7年([[1602年]])に元服。始めは義父の[[直江兼続]]から[[直江氏]]の通字である「綱」の字を貰い綱長と名乗る<ref>『色部文書』慶長7(1602年)12月16日付色部竜松丸宛直江兼続書状より</ref>が、
後に改名し、光長と名乗る。
慶長19年([[1614年]])の[[大坂冬の陣]]に参加。
寛永元年([[1624年]])1月15日に長門守となり、同3年([[1626年]])11月に侍頭に就任する。
寛永17年([[1640年]])6月2日没、享年54。