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[[大阪市]][[此花区]]生まれ。[[京都大学|京都帝国大学]][[建築学科]]に入り(クラス名はDEZAM)、同級生らとともに[[マルクシズム]]に共感を寄せた。またクラス会が東京の建築科学研究会京都支部となり、[[1933年]]卒業後、[[石本喜久治]]の[[建築設計事務所]]に入所し、建築科学研究会が改組した青年建築家クラブにも所属。10か月ほどで[[兵役]](内地勤務)に就いたが、青年建築家クラブが警察の[[摘発]]をうけ、[[軍法会議]]へ喚問される。除隊後は[[大学院]]に進み、[[1940年]]に[[同潤会]]研究部に入った(なお[[同潤会]]は翌年「住宅営団」に改組。同営団と[[日本住宅公団]]との関係は[[同潤会]]の項参照)。1942年には『住宅問題』を出版。[[大河内一男]]に推薦されて[[文部省]][[推薦図書]]となる。[[1944年]]に京大[[講師 (教育)|講師]]。その後、同大営繕課長になり、[[防空壕]]作りなどを行った。[[第二次世界大戦]]後、同大[[助教授]]、また京大教職員組合委員長を務め、総長カンヅメ事件に遭遇した。[[1961年]]に同大[[教授]](組合活動のため昇任が遅れたという)、[[1974年]]に退官した。
 
1947年には『これからのすまい』を出版。[[庶民]]の生活実態を詳細に調査し、庶民が意図的・慣習的に住宅内で食事の場所と寝る場所を区分している生活実態を明らかにした。西山はこれを「食寝分離」とし、この住み方の法則を後の住宅計画において応用していった。第二次世界大戦後、[[東京大学]]の[[吉武泰水]]や[[鈴木成文]]等によって食寝分離が可能な[[間取り]]を意識した[[51C型]]が公営住宅に採用され、またその後の[[日本住宅公団]]に影響を与え、今日まで引き継がれているnDKの間取り(いわゆる「[[nDKモデル]]」)を産んだと言われる。公団が開発した大阪府の[[香里団地]]の基本計画(そのすべては実現されなかったが)は西山の研究室で作成されたものであった。
 
また、戦後雑誌『[[新建築]]』で「新日本の住宅建築」特集号を執筆し、「大阪復興計画」、「新しき国土建設」では大都市否定論を否定して巨大都市や山岳都市など、居住密度の向上を提唱、「イエポリス」など[[京都]](25階建の超高層住宅)、奈良の[[都市計画]]にも提言を行った。[[京都市電]]の存続運動をおこなった「京都の市電をまもる会」の会長も務めていた。
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自らの住まいの変遷を描いた『住み方の記』で[[日本エッセイストクラブ賞]]を受賞。
ほかに『日本のすまい』『まちづくりの構想』などの著書がある。
 
==おもな都市計画・構想==
*1943年 大東亜聖地祝祭都市