「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (トヴェリ大公)」の版間の差分

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ミハイルの大公就任を喜ばないモスクワのドミトリイはトヴェリに大軍を送り、それに抗することの出来ないミハイルはリトアニアに逃亡する。当時のリトアニア大公[[アルギルダス]]は、途中[[スモレンスク]]及び[[ブリャンスク]]軍を加え、ミハイルと共にモスクワに向かい、11月にトロスナ川でドミトリイの前衛部隊を壊滅させ、モスクワに接近、これを包囲する。大公ドミトリイはクレムリンに立て籠もり、結局三日間の包囲に耐えきった。しかし、年代記によると、モスクワ近郊は、モンゴルの時以上に荒らされたという。最終的に両者は和解し、ここでやっと、ミハイルの従兄弟セミョンの遺贈が確定する。大公ドミトリイは、その後、裏切りを名目にスモレンスクとブリャンスクを攻めることになる。
 
しかしミハイルは、モスクワとの主導権争いがまだ続くことを予見し、1370年にトヴェリの町の外壁を強化する。まさに予想通り、同年、モスクワのドミトリイは和約を破棄して軍をトヴェリに送った。だがミハイルはリトアニアに逃亡、トヴェリはモスクワ軍により荒廃させられることになる。同年9月には、ドミトリイ自身が出陣し、ミクリン及び[[ズブツォフ]]を占領する。当時、リトアニア大公アルギルダスは[[ドイツ騎士団]]との戦いに忙殺されており、トヴェリ支援に向かうことが出来なかった。ミハイルは、ここで、ハン国に援助を求めることにする。当時実権を握っていた[[ママイ (キヤト部)|ママイ]]は、分割して統治するというルーシ支配の大原則に則り、ミハイルに[[ウラジーミル大公]]の[[ヤルルィク]]を与える。モスクワ大公ドミトリイはミハイルを捕らえるよう命じるが、ミハイルは追っ手の手を逃れ、再度アルギルダスの支援を求め、リトアニアに行く。11月に大公アルギルダス、弟[[ケイスタス]]麾下の大軍は[[ヴォロコラムスク]]近郊を荒廃させた後、モスクワを包囲する。一週間の包囲の後、セルプホフ公[[ウラジーミル・アンドレーヴィチ (セルプホフ公)|ウラジーミル]]によってモスクワは解放され、最終的に、アルギルダスとドミトリイは和約を締結する。ミハイルはウラジーミル大公の座から降りることを余儀なくされた。
 
何も得るところのなかったミハイル公は、1371年初頭に再度ハン国を訪れ、状況の改善を求めた。ママイは、再度彼に大公位を認めたが、しかし軍事援助は断固として拒否した。これにより、ミハイルの立場は一層悪化したと言える。モスクワのドミトリイはミハイルの失策にかこつけて、全ルーシに、ミハイルに非協力的態度をとるよう命令を出す。反モンゴル感情を利用したこの命令は効果を発揮し、その結果、ミハイルは[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]の町への入場を住民から拒否された。ミハイルに同行していたママイの使節サルィホジャは、[[ペレヤスラヴリ・ザレスキー]]の町に軍を終結させていたモスクワのドミトリイに、ママイの命令に従うよう命じるが、ドミトリイはこれを拒絶する。加えてここでドミトリイの懐柔策により、サルィホジャはミハイルを放ったまま、ハン国に帰還してしまう。ミハイルは[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]からヴェジェツキー・ヴェルフに、そしてノヴゴロドを目指すがそれは適わず、トヴェリに転進する。ミハイルは息子[[イヴァン・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公)|イヴァン]]をハン国に派遣し、モスクワのドミトリーを訴えた。そこでドミトリイはハン国に向かい、サルィホジャの援助を受けて自分を正当化し、大公のヤルルィクを得ることに成功する。次いでハン国からミハイルに対し、ここに至っては大公位から降りるよう伝令が来た。