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[[1953年]]に[[ボルチモア・オリオールズ|セントルイス・ブラウンズ]]でメジャーデビュー。「夜遊び」が好きでこのためかなかなか好成績はあげられず翌[[1954年]]にチームはボルチモアに移転しオリオールズとなったが、この年3勝21敗の成績で[[アメリカンリーグ|ア・リーグ]]最多敗戦を記録。この年のオフ、史上最多の28名が関与した[[トレード]]で[[ニューヨーク・ヤンキース]]に移籍。ただしこれで行状があらたまったわけではなく、移籍初年度の[[1955年]]にはスプリング・トレーニング(日本のプロ野球でいう春季キャンプに相当)で早朝5時に車を電信柱にぶつけている。監督の[[ケーシー・ステンゲル]]は「電報でも出しに行ったんだろう」と語っていたという。
 
[[1956年]]には自己最多の11勝(7敗)をあげてチームのリーグ優勝に貢献。[[1956年のワールドシリーズ|その年のワールドシリーズ]]はヤンキースと[[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]](当時はニューヨーク)の「地下鉄シリーズ」となった。ドジャースの本拠地[[エベッツ・フィールド]]で開幕し、ドジャースがまず連勝。[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキー・スタジアム]]に移った第3・4戦はヤンキースが連勝し、迎えた第5戦。先発したラーセンはドジャース打線に1本のヒットも四死球も、そして1人のランナーも許さず[[ワールドシリーズ]]史上初の[[完全試合]]を達成。現時点で唯一の記録で、[[ノーヒットノーラン]]すら他に記録されていない。シリーズは最終戦までもつれたがヤンキースが勝ち、ラーセンはシリーズ[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]及び[[ベーブ・ルース賞]]に選ばれた。
 
 
翌[[1957年]]も10勝をあげるが、2けた勝利はその2シーズンのみ。ヤンキースには[[1959年]]まで在籍しその後は[[1960年]]に[[オークランド・アスレチックス|カンザスシティ・アスレチックス]]、[[1961年]]途中に[[シカゴ・ホワイトソックス]]、[[1962年]]に[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]、[[1964年]]途中に[[ヒューストン・アストロズ|ヒューストン・コルト.45's]]([[1965年]]よりアストロズに名称変更)、[[1967年]]に[[シカゴ・カブス]]に移籍し1967年限りで現役引退。
 
==公式戦通算成績==
登板412(先発171) 81勝91敗23セーブ(※) 防御率3.78 完投44 完封11 投球回数1548 奪三振849
 
※当時セーブは公式記録ではなく、後年資料を再調査して判明したものである。
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==豆知識==
モーションが大きいことで制球に苦しんでいた高校時代の[[王貞治]](当時は投手)が、監督に勧められてラーセンのノーワインドアップ投法を取り入れ、[[第29回選抜高等学校野球大会|センバツ]]優勝投手に上り詰めた。
ドンが始球式をした[[1999年]][[7月18日]]には、[[デービッド・コーン]]が完全試合を達成している。
 
ラーセンが始球式をした[[1999年]][[7月18日]]には、[[デービッド・コーン]]が完全試合を達成している。
 
==完全試合内容==