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[[581年]]([[開皇]]元年)、隋が建国されると、高熲は[[僕射|尚書左僕射]]・[[侍中|納言]]となり、渤海郡公に改封され、しばらくして左衛大将軍を加えられた。新都大監を兼ねて大興城の建設を司り、制度の多くは彼によって出された。さらに左領軍大将軍を加えられた。母の死により職を去るが、詔勅によりすぐ呼び戻された。
[[582年]]、長孫覧・元景山らを指揮して南朝の[[陳 (南朝)|陳]]を伐つが、陳の[[宣帝 (陳)|宣帝]]が死去したため、喪中にある敵を攻撃することは非礼であるとし、兵を撤退させた。文帝に陳攻略の策を問われると、江南の収穫期に攻撃する振りを繰り替えして敵を疲労させ、さらに攻撃の振りを繰り返すことによって相手を油断させること、また密かに工作員を派遣して糧食の
高熲は文武に大略があって政務に通達し、[[蘇威]]・[[楊素]]・[[賀若弼]]・[[韓擒虎]]ら多くの優れた人材を推挙し、彼らの才能を尽くさせた。20年近く宰相の地位にあって、朝野すべてが信服し、異議を唱えるものはなかったという。文帝の治世が栄えたのは高熲の力によるものであった。
文帝の皇后である[[独孤皇后]](独孤信の娘)は嫉妬深い性格で、夫の文帝がほかの女性を寵愛することを許さなかった。ある時、文帝が尉遅迥の孫娘を仁寿宮で寵愛していることを知ると、皇后はこの娘を密かに殺させた。文帝は怒り、単騎で宮殿を飛び出して山谷の間に入った。高熲は楊素とともに文帝を追いかけ、「陛下は一婦人のために天下を軽んじられますな」と言って諫めた。これを聞いた文帝は少し気が収まり、夜中に宮殿に帰還した。これより以前、独孤皇后は高熲の父が父・独孤信の家来だったこともあり礼遇していた。しかし高熲が皇后を「一婦人」と言ったことを知ると、高熲を怨むようになったという。
この頃、文帝の長男である皇太子の楊勇は奢侈を好み、多くの愛妾を持っていたことから、父母の文帝、独孤皇后のいずれにも嫌われていた。皇后は楊勇を廃立して次男の楊広を新たに皇太子に立てることを勧めるようなり、決断しかねた文帝はこれを高熲に相談した。高熲は皇太子と姻戚関係にあり、長幼の序を理由に廃立に反対したため、文帝はいったんは思いとどまった。独孤皇后は高熲が廃立に賛同しないことを知ると、彼の失脚を企むようになった。これより以前、高熲が夫人の死去した時、皇后は文帝に後添えを勧めたことがあったが、高熲は老齢を理由にこれを断った。ところがしばらくして高熲の愛妾が男子を産んだことを知ると、皇后は非常に不快に思い、文帝に対し「陛下が後添えを世話しようとしたのに、高熲は愛妾のことを気にかけ、陛下を欺いたのです。これでもまだ高熲を信じようとなさるのですか」と讒言し、これにより文帝は高熲を疎んずるようになった。
[[598年]]、漢王・[[楊諒]]を総大将とする[[高句麗]]遠征が行われ、高熲は遠征に反対したが、元帥長史として従軍した。大雨と疫病により遠征が失敗すると、独孤皇后は高熲には始めから遠征を成功させる気がなかったと文帝に讒言した。さらに遠征時、文帝は楊諒が年少であることから、高熲に軍の一切を委任したところ、楊諒の意見の多くは高熲によって退けられ
[[604年]]、煬帝が即位すると高熲は[[太常]]に任じられた。煬帝が奢侈を好み、北周や北斉の音楽家および天下の演芸娯楽を集めようとしたところ、高熲は上奏して反対した。さらに607年、煬帝の[[万里の長城]]の築城や[[突厥]]の[[啓民可汗]]への優遇、朝廷の綱紀の弛緩などを賀若弼らとともに批判しあったところ、朝政誹謗の罪で煬帝に誅殺された。天下の人々は高熲の死を冤罪とし、これを惜しんでやまなかったという。
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