「長谷部言人」の版間の差分

m
sty using AWB
m (sty using AWB)
 
== 旧石器時代人種論 ==
長谷部は東北大に移って後の[[1919年]]に、河内国府遺跡の発掘に参加したのを契機として、同年岩手県大般渡市細浦貝塚、[[1925年]]には同市大洞貝塚等を発掘し、石器時代人骨の研究に没頭していった。戦前の昭和時代の日本人種論は、長谷部と[[清野謙次]]の学説を2大潮流としている。ともに、石器時代人日本人説であることは同じであり、明治大正時代以来有力であったアイヌ人説を否定した。
 
その長谷部の学説を、[[池田次郎]]は次のように記している。
 
 長谷部の研究は清野とは対照的に、主として東日本の人骨を材料とし、計測値の統計結果にとらわれずに、洪積世人類の骨格特徴にみられる時代的変化の説明原理を日本人種論に導入したことに特色がある。戦後になって、自己の主張を体系的に組み立てた「日本民族の成立」(昭和24年)では、前期洪積世以降の日本列島住民の転変を、身体と文化の両面から考察し、縄文人と古墳時代人との体質的差異は、狩猟採集経済を基盤とする石器時代の生活から、水田農耕に依存する金属器時代の生活への転換が、租借筋、下肢筋の弱体化を招く結果を生じたと解釈し、弥生式時代およびその後においても、日本人の体質を一変させるほどの混血はおこらず、日本人は石器時代から現代にいたるまで遺伝的に連続した集団であると断言している。
 
日本人の年代的変化を綿密に分析し、この長谷部の日本人説を発展させ、変化説を強化したのが、高弟の[[鈴木尚]]であった。
 
== 円筒土器文化論 ==
 [[1925年]][[山内静男]]を助手に迎えて大洞貝塚を発掘し、さらに青森県八戸市一王寺貝塚を発掘し、山内発掘の青森県北津軽郡市浦村オセドウ貝塚の土器とを総合し、「人留学雑誌」42-1([[1927年]])の論文で「陸奥・羽後・北海道の石器時代遺跡から出土する円筒土器によって代表される文化の担い手を、短頭に近い頭形をもち、関東人に比べてやや高身長である現代奥羽人の祖先とみなし、石器時代人を同地域に居住する現代人の直接の先祖であるという考えを固めるにいたり、日本人およびアイヌが石器時代人と、それぞれ異なる民族との混血により生じたとする当時の清野説に疑問を投じている」
 
== 著書 ==
26,379

回編集